心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

なんでこんな設定にしたのかな?

 

 

 

ぼんやりと考えごとをしている時

ふと思いました。

 

私は、子どもの頃、母から

愛とは逆のものをたくさんもらっていたな、と。

 

 

 

受容ではなく否定を

寛容ではなく不寛容を

自由ではなく束縛を

許すのではなく許さないことを

温かい眼差しではなく冷たい目を

優しい声かけではなく金切り声や怒鳴り声を。

 

こういうものを毎日受け取り続け

私の心には傷がついてしまいました。

 

そして、傷ついた心では

人生はとてつもなく生きづらいのでした。

 

 

 

 

 

ところで、私は生まれる前、魂の時

自分でこの母親を選んでいます。

 

この設定で、こういう経験がしたいと

自分で選んでいるのです。

 

この母親を自ら選んだということは

愛じゃないものを受け取ることも

当然承知していて、敢えてそれを経験したいと

思ったということです。

 

 

 

私は、この経験から

何を得たいと思ったのでしょうか?

何を望んでその設定にしたのでしょうか?

 

こんなに傷ついて

その後の人生も生きづらくなってしまうのに

それでも経験したかったのは

何のためでしょうか?

 

必ず自分にメリットがあるはずです。

必ず大きな利益や目的があるはずです。

 

そうでなければ、わざわざ自分で

こんな経験を選ばないと思いますから。

 

 

 

 

 

私は何が欲しかった?

私は何を学びたかった?

 

言い換えると、魂は何を学びたかった?

 

 

 

そう問いかけていると

ふと、自分の本棚が頭に浮かびました。

 

私の本棚には、自分が

苦しみから逃れるための本がぎっしりです。

 

不安のメカニズム、HSP、家族の心理

自信をつける方法、幸せになる方法

カウンセリング、家族相談士、発達障害

などなど。

 

私は、自分が傷ついて苦しかったから

自分に何が起こったのか

どうすれば幸せになれるのか

たくさん勉強しました。

 

そして、傷ついた経験があるから

傷ついた人に寄り添えるし

繊細な感覚があるから

繊細な人の大変さやしんどさもわかります。

 

 

 

否定される辛さがわかるから

受け入れられた時の安心した気持ちがわかり

相手のことも受け入れようと思います。

 

自由を奪われる息苦しさがわかるから

自由な時の伸びやかさやワクワク感がわかり

人にも自由でいてほしいと思います。

 

許されないことの悲しさがわかるから

許された時の安堵感がわかり

人のことも許したいと思います。

 

優しくされない悲しさがわかるから

優しくされた時の温かさがわかり

人にも優しくしたいと思います。

 

 

 

もし、私が心身ともに健やかで

元気いっぱいの人だったら

こんなふうに思える自分には

なっていかなかったかもしれません。

 

私は、母から愛とは逆のものをもらい

それを体験したことによって

自分は母からもらったものの逆を

つまり愛を与えられるようになりました。

 

 

 

きっと私は、愛を学びたかったのです。

それまで知っている愛よりも

もっと深い愛を知りたかったのです。

 

魂の私は、ちゃんと愛せる人に

なりたかったのだと思います。

 

自分や、相手や、動物や、植物や

自然や、地球や、目の前のもの

自分の周りのものすべてを

愛したいのです。

 

愛じゃないものを体験して

苦痛を味わい、痛い思いをして

より深く愛というものを学んだのです。

 

 

 

 

 

そんな私の学びには

私に愛じゃないものを体験させるという

嫌われ役が必要不可欠でした。

 

嫌われ役がいないと

私の学びは成り立ちません。

 

誰も嫌われ役なんてやりたくない

そんな中、その役を買って出てくれたのが

私の母でした。

 

母は、魂レベルでは

私のことを愛していたのでした。

 

そのことに気づき

私は母に感謝しました。

そして、感謝の涙が流れました。

 

「お母さん、私の成長のために

嫌われ役をやってくれてありがとう。」

 

それは、とても幸せな気づきでした。

 

 

 

 

 

そんなことを

うちの猫を抱っこしながら考えていました。

 

 

 

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(うちの猫は愛の塊です)

 

認められたいという飢餓感

 

 

 

春のこの季節になると

友達や知人のお子さんが

どこの学校に入ったとか

どこに就職したとかいう話が

耳に入ってきます。

 

そういう話題に登るのは大抵優秀な子で

良い大学や一流企業などに入ったという話です。

 

私は、そういう話を聞くと

いいなぁ、羨ましいなぁと思います。

 

自分の子どもが優秀なのは

どんな気持ちなんだろうか?

さぞ誇らしいのだろう。

良い気分だろう。安心なのだろう。

 

そう思い、ちょっと心がチクンとします。

 

 

 

 

私の子どもたちには発達障害があって

そういうこともあってか

良い学校にも一流企業にも縁がありません。

 

それどころか、「普通」になりたいと

本人がどんなにがんばってもそれも難しく

せめてこの社会で生きていけるようにと

子どもの幸せを願って、願って

それでもわからない、という人生です。

 

優秀な子を持つ親は

私と全く違う世界を生きていて

きっと誇らしいのだろう、安心なのだろう

と想像して、それを手に入れられない自分が

惨めで悲しくなってしまうのです。

 

 

 

こんなふうに思ってしまうことに

子どもたちには申し訳ないと罪悪感があり

自分の子どもを「劣っている」という目で

見ているということだなと

またそこでも自己嫌悪に陥ります。

 

「優秀な子を持つ親が羨ましい」なんて

思わないでいたいですし

「私の子は素晴らしい子だ」と

胸を張っていたいです。

 

なので、私の心の「チクン」を

見つめてみることにしました。

 

 

 

 

 

その「チクン」の正体は

羨ましいという思いの下にある

圧倒的な悲しみでした。

 

優秀な子を育てて私も認められたい。

でもそうじゃないと認めてもらえない。

自分は価値ある人間だと認めてもらいたい。

尊重され、大切にされたい。

 

優秀じゃないと惨めさが覆せない。

惨めで悲しくて自分なんて

価値がないという思いを覆せない。

 

根底にあるのは自分の無価値感。

自分なんてという自己否定。

それを感じなくて済むのが

人から褒められた時、認められた時なのです。

 

自分の子どもが優秀だったら

自分の惨めさを感じなくて済みます。

 

でも、それが叶わなかったら

それを手に入れた人を見て

惨めで悲しいと感じるのです。

 

 

 

 

 

クレプトマニア(窃盗症・

万引きなどを繰り返してしまう)の人は

過去に親などの大切な人から

粗末に扱われた経験を持っていて

認められたいという飢餓感がある

と聞いたことがあります。

 

「認められたいという飢餓感」

この言葉が私にはしっくりきました。

 

今までも、感情が動くことがあれば

繰り返し自分と向き合って

その都度、自分を認め、受け入れてきました。

 

それでも、この認められたいという飢餓感は

本当に根が深く、こうやって何度でも

亡霊のように湧き上がってきます。

 

もちろん、全然進歩していないわけではなく

螺旋階段のように、同じところを

ぐるぐるしているようでも

少しずつ、より深く自分を認め

受け入れられていますので

出てきた時にきちんと向き合って

対処するしかありません。

 

 

 

認められたいという飢餓感は

アダルトチルドレン(AC)の人は

みなさんあるのではないかと思います。

 

親からきちんと認めてもらえたACなど

いないと思いますから。

 

 

 

 

 

自分の惨めさ、悲しさ、劣等感

無価値感、自分なんてダメだという思いは

自分で認めてあげないと解決しません。

 

自分の外側をいくら装飾しても

(優秀な子ども、成果、実績、高給など)

解決しないのです。

 

自分の価値は

子どもの優秀さで高めるのではなく

もう自分には価値はある

始めから価値はあるのだと気づくことです。

 

 

 

 

私は、何度も自分を認め、褒めて尊重しても

繰り返し出てきてしまう

「認められたい飢餓感」を抱きしめました。

 

子どもの頃、

「認めて欲しい!認めて欲しい!」と

ずっと心で叫んでいたのです。

 

それでも、その願いを

聞き入れてもらえることはありませんでした。

 

その粗末にされる惨めさ

願っても願っても叶わない悲しさ

それらが成仏できずに

繰り返し出てきてしまうことを

私は許してあげようと思いました。

 

「そうだね、悲しかったね。

ちゃんと認めてもらいたかったね。」と

飢餓感に寄り添いました。

 

 

 

 

 

そうして自分を慰めてあげると

ものごとが客観的に見られるようになり

優秀な子を羨むのは違うなと思えてきました。

 

 

 

どんな人でも、絶対安泰な人などいなくて

先のことはわかりません。

今は良くても、この先何が起こるか

わかりません。

保障されてる人生などないのです。

 

実際、優秀すぎて先生に嫉妬されて

内申を悪く書かれるなど意地悪されたり

一流企業に就職したけれど

激務すぎてうつ病になったり

自殺してしまうことすらあるのです。

 

優秀な子を持つ親にも

その世界での大変なことが

たくさんあるのだと思いました。

 

 

 

 

 

幸せは、条件だけでは測れません。

何が幸せかは人それぞれ。

どう生きていくかも人それぞれ。

 

優秀さというのは条件のひとつに過ぎません。

 

 

 

人には、生まれてきた時に

あらかじめカードが配られていて

そのカードの中身は人それぞれ違います。

 

それはまるでトランプの大富豪のようなもの。

大富豪は、その時配られたカードだけで

ゲームを戦っていきます。

 

人生もそれと同じで

自分に配られた手持ちのカードを駆使して

自分の人生を生きていくしかありません。

 

自分が持っていないカードを

欲しがったり、羨んだりしても仕方ないのです。

 

自分が持っているカード

すなわち、自分のできること

自分の長所、自分がもう持ってるものだけで

勝負するしかないのです。

 

 

 

でも、それを残念に思ったり

不安に思う必要は全くありません。

 

なぜなら、自分が今持っているカードだけで

この人生は攻略できるようになっているからです。

 

人は、自分が自分のままで生きる時

必要なものはすべて持って生まれてくると

言われています。

 

だから、絶対に困らないのです。

 

人のカードを羨む必要はありません。

それは、自分には必要がないから

配られなかったのですから。

持ってないものはそのままでいいのです。

 

持っているものだけで

生きられるようになっているのです。

 

大事なのは

他の誰かになろうとしないこと。

自分自身のままでいること。

 

 

 

 

 

自分の心を深く旅して

元のところに戻ってきたような気分です。

 

人を羨む必要はなく

自分の現状に落ち込む必要もなく

人も、自分も、自分の子どもも

尊重され、祝福されることを願います。

 

大事なのはやっぱり

ありのままの自分でいることだと思いました。

 

 

 

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(桜ってとってもいい香りがしますね♪)

 

 

 

 

仕事を辞めようと思ったけど

 

 

 

三月末で仕事を辞めたいと上司に伝え

OKをもらっていて

私はすっかりその気になっていたのですが…

 

退職届を書く段階になったら、上司から

「月に一回でもいいから

来てもらえませんか?」と言われました。

 

「◯◯さん(私)とは、細くてもいいから

長くつながっていたい」と。

 

 

 

その月一回で、上司の手伝いをしたり

心理系イベントを仕切ったり

利用者さんとの面談などをして欲しいそうです。

(私は就労支援員です)

 

そんなふうに言ってもらえることが

ありがたくて、深く考えず

「月一回なら」とOKしました。

 

 

 

 

 

「ずっとつながっていたい」

「信頼している」

こんな言葉を言ってもらえるなんて

幸せなことです。

 

もしかして

仕事で役立つからかもしれないけれど

でも、どんなに役立っていても

居心地の悪い人や嫌な人

好きと思えない人には

「ずっとつながっていたい」という言葉は

出ないと思うのです。

 

ただ人手が欲しいだけなら

月一回なんて何の足しにもなりません。

何の意味もありません。

 

その月一回に意味があるとしたら

それはやっぱり「つながり」です。

 

つながっていることで

どんな良いことがあるのか

それはわかりませんが

信頼され、望まれていると感じました。

 

 

 

 

 

 

信頼され、望まれ、受け入れられ

評価され、歓迎されている。

 

そんな場所にいるのは心地良いものです。

 

お別れするのが悲しかった

一緒に働くスタッフや利用者さんたちと

また、たまにお会いできるというのも

嬉しいことです。

 

 

 

この居心地の良さや

会社のみんなに信頼され、望まれている

という現実を受け取っているということは

私が自分を信頼して、受け入れて

愛しているということなのだと思います。

 

私が自分に優しくできている、

「それで合ってるよ!」という

答え合わせです。

 

自分が受け取る現実は

自分の心の反映ですから。

 

 

 

好きな仕事だけど

奇跡的にやっと得た仕事だけど

辞めてしまったら

もうこの仕事には戻れないかもしれないけど

みんなとお別れするのも

みんなの期待を裏切るのも辛いけど

 

それでも私は自分の心と体の声を聞いて

自分の心と体の言う通りにする選択をしました。

 

つまり、仕事を辞める。

好きな仕事を手放す。

そう決めました。

 

仕事よりも、自分の心、自分の体

自分自身の本当の望みを優先しました。

 

自分を一番大切にしました。

 

その反映が今のこの状況なのだと思います。

本当にありがたいことです。

 

 

 

 

 

でも、月一回出勤をOKしてしまってから

「あれ?本当にこれで良かったのかな?」

と少し不安に思うことも正直あります。

 

例え月一回でも、そこに通うとなると

縁が続いているわけで完全に手放せず

私はまた縛られたように感じて

息苦しくなるのではないか?

 

その月一回のために、また緊張して

数日前から気が重くなったりしないか?

 

「◯日に会社に行かなくてはならない」と

体調や気候の心配をし

そのことに囚われるのではないか?

 

自由であるはずの残りの30日間も

ずっと縛られているような感覚に

ならないだろうか?

 

などなど。

 

 

 

でも、とりあえず今の段階では

「断ろう」とは思えず

「やってみよう」の方が大きいです。

 

なので、まずは月一回でやってみて

「やっぱり無理!」となったら

断ろうと思います。

 

私はもう、無理はしないし

我慢もしないのです。

 

 

 

 

私は、会社に行く日以外の約30日を

自由に、自分自身で過ごせるように

自分に自由を与えたいです。

 

自分を縛らない。

自分を重くしない。

気が重くなることはしない。

 

 

私は、自由で、軽やかで、楽しい毎日を

自分にプレゼントしたいと思います。

 

 

 

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誕生日の贈り物

 

 

 

今日、何気なくリビングの天井を見たら

光が映っていました。

 

その光は、細かい丸い光が

パッと散らばってまた集まったり

ふわーっと広がってまた集まったり

まるで万華鏡のように

姿を変え続けていました。

 

丸い光の粒々がふわーっと広がったり

シャープにパッと散らばったり

あるいは、ただゆらゆらと揺れている様が

息を呑むような美しさでした。

 

 

 

 

 

私は、この美しい映像のようなものはなんだ?

いったい何が映っているんだ?と思い

探してみたら、それは

ベランダの鉢の受け皿に溜まった水が

天井に反射したものでした。

 

 

 

ベランダには、フラワースタンド

ローズマリーが置いてあります。

 

そのローズマリーの下に

お水をあげた時に鉢の下から出る

余った水を受ける受け皿が置いてあるのです。

 

朝、ローズマリーにお水をあげたあと

その受け皿の溜まった水に

上から水滴が垂れるので

そのたびに水が揺れ

光が飛び散ったように見えるのでした。

 

 

 

からくりはわかったけれど

それにしても、なんて美しいのでしょう。

 

本当に宝石がキラキラしているように

その光は形を変え続けました。

 

天井にダイアモンドを散りばめて

集めて、また散りばめて

を繰り返しているようでした。

 

水滴が落ちる間隔が開いてくると

光の粒は風に揺られて

その場でキラキラと煌めきました。

 

その光も

この世のものとは思えない美しさでした。

 

 

 

私は、その衝撃的な美しさに

しばらく手を止め、光を見続けました。

 

なんてキレイなの!

なんてキレイなの!

なんてキレイなの!

 

感動が私を包みました。

 

 

 

 

 

これは、偶然の産物です。

水と風と太陽光がちょうどいい感じに

出会って、作用して

この現象が起きました。

 

でも、私は

「これは宇宙からの贈り物だ」と思います。

 

今日は、私の誕生日なのです。

 

宇宙は、素晴らしい感動を

私に贈ってくれたなぁと思いました。

 

宇宙からの祝福に心から感謝します。

 

 

 

*  〜  *  〜  *

 

 

 

そういえば、何年か前、夫が

「子どもたちが俺の誕生日に

おめでとうと言わなかった!

俺の誕生日を忘れた!」と

大激怒したことがありました。

 

始め、私は冗談かな?と思ったのですが

冗談ではなく、本気で、真剣に

怒っているのでした。

 

私は「え?誕生日忘れたくらいで

そんなに怒る?自分だって人の誕生日

忘れることあるのに」と思いました。

 

でも、この時、夫は

自分が粗末に扱われた

自分が忘れられた

自分が軽く扱われた

と傷ついていたのでしょう。

 

その傷つきの深さが怒りの大きさになって

現れていたのです。

 

 

 

昔、心理学を学んでいた時

「誕生日は大切。誕生日は

祝ってあげなくてはいけない」と

聞いたことがあります。

 

人間にとって、誕生日を祝うのは

その人の存在そのものを祝福する

という意味があるのです。

 

あなたが生まれてきた喜ばしい日

あなたの存在そのものが嬉しい

あなたが生まれてきて良かった

ということです。

 

だから、誕生日を忘れないことや

祝福して喜んであげることは

その人を愛しているということなのです。

 

 

 

夫は、その頃、単身赴任中で

寂しさもあり、また家でも居場所のなさを

感じていたのかもしれません。

 

そこへ持ってきて誕生日を忘れられるのは

悲しくて仕方なかったのでしょう。

 

子どもたちがいくら謝っても

私が宥めすかしても

怒りはなかなか収まりませんでした。

 

 

 

さすがに今では機嫌は治っていますが

その一件以来、私と子どもたちにとって

夫の誕生日はトラウマになりました。

 

夫の誕生日が近づいてくると

みんなものすごく緊張して

「◯日パパの誕生日だよ!忘れないで!」と

お互いに声をかけ合っています。笑

 

 

 

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ここは私の居場所だという安心感

 

 

先日、このブログで

「自分の席、自分の居場所が大切だと思う」

という記事を書きました。

 

 

 

(その記事の抜粋↓)

『私は、この人生で、いつも

なんとなく自分の居場所がないような

居心地の悪さを感じていました。

 

イメージとして

みんなでワイワイ楽しそうにしていて

みんなにはちゃんと自分の定位置があって

安心できる自分の居場所があるのですが

私ひとりだけは自分の席がない、という感じ。

 

だから、私もどこかに座りたい

どこかに落ち着きたい、と思いながら

自分の席を探してキョロキョロするのですが

自分が座れる席がないのです。

 

「あ、あそこ空いてるかな?」と思って

座ろうとすると、近くの人に

「そこは◯◯さんの席だからダメ」

と言われます。

 

誰も「ここどうぞ」

「ここなら空いてますよ」

とは言ってくれません。

 

私だけ自分の席がない

自分の居場所がない、というイメージ。

 

それは、言い換えれば

「私はみんなに歓迎されていない」

「私はいなくてもいい存在だ」

ということなのだと思います。』

(抜粋終わり)

 

 

 

 

 

私には

このイメージがいつも付き纏っていて

現実でも似たようなことが

たびたびありました。

 

お弁当を食べる場所や

自由席の音楽会の会場など

私が空いている席を見つけ座ろうとすると

「ここ取ってるんですけど!」とか

「ここは◯◯さんの席です」とか言われ

退散する羽目になるのです。

 

もちろん席には何も置いてなくて

私は座れると思って近づくのですが

近くの人にピシャリとそう言われます。

 

そういうことが1回や2回ではなく

本当に何回もありました。

 

 

 

そのたびに、私は傷ついた気分になりました。

 

「ここは◯◯さんの席です」という言葉が

「ここはあなたの席ではない」

「ここにあなたのいる場所はない」

に変換されて聞こえるのです。

 

「あなたの席なんかないよ!」と言われ

追い払われた気分になるのです。

 

 

 

 

受け入れてもらえなかった

拒絶された、という傷が

刺激されるのだと思います。

 

自分の席がない、自分の居場所がない、と

とても悲しい気持ちになりました。

 

その思いは

私は歓迎されない、望まれない

受け入れてもらえない、に続きます。

 

一番の大元は

「私は愛されていない」です。

 

席をめぐる日常のそんな些細な出来事が

私の傷を刺激していました。

 

 

 

 

 

でも、先日その記事を書いたあと

「あれ?そういえば、最近

そういう出来事ないな」と気づきました。

 

そして、もし今、自分が座ろうとした席を

「ここは◯◯さんの席です」と言われたら

私はどう感じるだろう?と考えてみると

ただ「あ、そうなんですね」と

思うだけなのではないかと思うのです。

 

そこに傷つきはなく

「その席は◯◯さんの席だった」という

事実だけを認識するのではないでしょうか。

 

誰も私を排除しようとしてないし

「あなたの席はない!」とも言ってません。

 

それは、私が事実に勝手につけた妄想で

私独自の捉え方だったのです。

「私がそう言われたように感じた」だけです。

 

 

 

 

 

でもなぜ、昔は傷ついていたのに

今は気にならなくなったのでしょう?

 

 

 

それは、私のマインドが

「私の居場所はない」から

「ここは私の居場所だ」に

変わったからだと思います。

 

それは、家の中でも、会社でも

あるいは道を歩いている時でさえも

「ここは私の居場所」

という感覚と共にあるという感じ。

 

「私、ここにいていいのかな?」と

不安になることがなくなったのです。

 

 

 

昔は、どこにいても

「私、ここにいてもいいのかな」と不安で

だからこそ、その場で役に立とうと

必死になっていました。

 

それは、自分には価値がない

自分は受け入れられない

と思っているからです。

 

でも、その

自分に対するネガティブな思い込みを

長年自分と向き合って癒し

手放してきました。

 

「自分には価値がない」

「自分は受け入れられない」から

「自分はありのままでいていい」

「自分はそのままで愛される」

に変わったら、世界が変わりました。

 

 

 

自分の居場所を気にするまでもなく

自分は、今いる場所に

そのままでいてもいいのだと

思えるようになったのです。

 

だから、家にいても、会社にいても

道を歩いていても

自分は自分でいるだけです。

 

そこが私の居場所です。

 

 

 

もし、本当に場違いな場所にいたら

「ここは私のいるべき場所じゃない」

と思って出て行くでしょう。

 

でも、そこに傷つきはなく

ただ私の居場所ではないと思うだけで

自分にふさわしい場所

自分の居心地の良い場所へと

帰っていくだけです。

 

 

 

私が「自分の席がない」と感じていたのは

自分に自信がなく

自分を受け入れておらず

自分を愛していなかったからでした。

 

自分を大切にして

いついかなる時も愛していれば

居場所に対する不安など起こらないのです。

 

 

 

「ここは私の居場所だ」という安心感=

「私はありのままで愛される」という安心感。

 

「私はありのままで愛される」と思えるには

どんな自分も許して受け入れていけば

おのずとそうなっていきます。

 

自分がありのままの自分を愛した時に

「私はありのままで愛される」

ということが腑に落ちます。

 

 

 

 

 

ありのままの自分を愛すれば

現実に起こっている問題は

ほとんど解決するのだと思います。

 

 

 

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自分のクッションを買った

 

 

 

去年、自分専用のソファを買いました。

 

そして先日、そのソファに

自分専用のクッションを買いました。

 

 

 

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自分の椅子があるというのは

いいものです。

 

自分の椅子、自分のソファは

自分の席。

 

それは自分の居場所なのです。

 

 

 

 

 

私は、この人生で、いつも

なんとなく自分の居場所がないような

居心地の悪さを感じていました。

 

イメージとして

みんなでワイワイ楽しそうにしていて

みんなにはちゃんと自分の定位置があって

安心できる自分の居場所があるのですが

私ひとりだけは自分の席がない、という感じ。

 

だから、私もどこかに座りたい

どこかに落ち着きたい、と思いながら

自分の席を探してキョロキョロするのですが

自分が座れる席がないのです。

 

「あ、あそこ空いてるかな?」と思って

座ろうとすると、近くの人に

「そこは◯◯さんの席だからダメ」

と言われます。

 

誰も「ここどうぞ」

「ここなら空いてますよ」

とは言ってくれません。

 

私だけ自分の席がない

自分の居場所がない、というイメージ。

 

それは、言い換えれば

「私はみんなに歓迎されていない」

「私はいなくてもいい存在だ」

ということなのだと思います。

 

 

 

生まれてきた時に

なんとなく歓迎されてないと感じて

自分の居場所がないと

心に刷り込まれてしまったのでしょうか。

 

このイメージはずっと持っていて

そんな夢を見たり

実際にそういう場面にあったりしてきました。

 

だから、自分の席、自分の居場所が

確保されていることを

大切に思うのかもしれません。

 

そういえば、新幹線も自由席は苦手で

必ず指定席を取ります。

 

 

 

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そんな大切な自分のソファの

自分のクッション。

 

どこか懐かしくほっこりする

素朴な植物モチーフです。

 

派手さはないけれど

ホッとする感じが好きです。

 

 

 

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生地は麻100%。

サラサラして気持ちいい手触りです。

 

 

 

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柄はプリントではなく

すべて刺繍。

ほんとに可愛らしい♡

 

 

 

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朝、目覚めてクッションが目に入ると

「かわいい♡」

部屋に入ってきて「かわいい♡」

通りかかって「かわいい♡」

 

クッションを目にするたびに

「かわいい♡」と思って

心が上がります。

 

「好きなものって、すごいな。

こんなに気持ちを

アップさせることができるんだ。」

と思いました。

 

 

 

こんなに影響があるのなら

自分の周りには

お気に入りをたくさん置きたいです。

 

自分のお気に入りに囲まれて

生活するって

とても幸せなことですね。

 

パジャマもシーツも

コップも洋服も

お気に入りを選択しようと思いました。

 

 

 

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自由を謳歌する無職でもいい

 

 

 

私は、専業主婦だった時

自分は働いていないのに

お金も時間も自由に使える豊かさに

居心地の悪さを感じていた。

 

夫は働いているのに

他の人はみんな働いているのに

自分だけが優雅に自由でいるなんて

いいのだろうか?

 

誰かに責められるのではないか

咎められるのではないか

自由でいてはいけない

楽をしてはいけない

幸せになってはいけない、と

自分だけがいけないことをしている気分だった。

 

努力する

我慢する

無理をする

頑張る世界に引っ張られていた。

 

みんなが働いているから私も…?

なぜみんなに合わせる?

 

 

 

 

 

既存の会社で働くと

「眠いのに起きなくちゃ」

「疲れてるけど行かなくちゃ」

「具合悪いけど行かなくちゃ」

「やりたくないけどやらなくちゃ」

が、自分の毎日の中に増える。

 

それを我慢してやって

自分は楽しいの?

自分のためになるの?

自分の波動は上がる?

 

答えはNOだ。

 

 

 

みんなが我慢してやっているのだから

やらなくては、と思う。

 

では、もしみんなが

それをやってなかったら?

 

みんなが好きに自由に生きていたら

本当にそれが好き!と思わなければ

それをしようとしないだろう。

 

 

 

 

 

自分の中の答えは

「自由に生きたい」

「自分のペースで生きたい」

ということなのだ。

 

私は、この自分の答えを生きる。

 

人と違っても

役に立っていなくても

働いていなくても

目に見える成果がなくても

自由すぎても

好きにしすぎても

我慢して働いている人がいても

 

私は、ただ私を生きる。

 

私の心地よさ、気持ちよさ

楽しさを生きる。

 

 

 

 

 

私は、私に与えられている毎日を

好きに過ごせる自由を享受したい。

 

私に与えられている自由を

悪いと思ったり

遠慮したりしないで

喜んで、楽しんで、受け取って

感謝する。

 

お金も、自由も

今、私にあるということは

それを天から与えてもらっているということ。

 

喜んで使わなければ

受け取りを拒否していることと同じだ。

 

 

 

 

 

それは、みんなに平等に与えられている。

 

例え、どんな状況だったとしても

将来を楽観することなどできなくても

無職でも、病気で働けなくても

孤独でも、気持ちが落ち込んだとしても

 

今、餓死しないで生きられていて

時間があるのだとしたら

それは天から与えられたもの。

 

生きられるだけの豊かさと

時間という自由を与えられている。

 

自由は愛で、恵みで

神様から贈られたギフトだ。

 

 

 

 

 

私は、私のままでいることを許し

自分のペースで生きることを許し

繊細であることを受け入れ

自由を享受する。

 

私は、自分に与えられた自由を喜び

豊かさに感謝する。

 

 

 

私がこれからやることは

本当の自分を楽しんで生きることだけ。

 

その結果

どこに行き着くのかわからない。

何が起こるのかもわからない。

 

まだまだ旅の途中だ。

 

 

 

(ひとつ気づいたこと。

私にとって自由であることは一番大切。

そうでないと魂が窒息してしまう!)

 

 

 

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