心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

緊張してる時は動作をゆっくり丁寧に

毎日同じことの繰り返しの日常

あるいはバタバタと忙しい日常

 

そんな中では

やらなければならないことは

さっさとやって終わらせよう

としてしまうものです。

 

そんな時、頭の中では

「あれやって、次これやって」と

いろいろ考えています。

効率よくやりたいので当然です。

 

効率を考える以外にも

ご飯何食べよう、とか

あれどうしよう、とか

脈絡もなく考え続けています。

 

この時、思考が優位になってて

「感じる」感覚が閉じている状態です。

 

 

 

 

 

現代人は、ほとんどの人は

思考優位になっていて、あまり

感じるということをしてないそうです。

 

これが、現実人の心を疲弊させる

一因になっています。

「考えること」と「感じること」を

どちらもバランスよくするのが

健康には大切だと言われています。

 

 

 

 

 

私もバタバタとあれもこれもとやっていると

ふと、心を失っているなぁ

と思うことがあります。

 

道を歩いていても

約束の時間に遅刻しそうで急いでいる時は

ほとんど何も見ていないです。

のんびりお散歩してる時は

周りの草木や鳥、空、風、陽の光などを

味わって楽しんでいるのに。

 

 

 

 

そんなこともあり

私はなるべく日常の動作を

丁寧にゆっくりとすることを心がけています。

 

動作をゆっくりすることによって

洗濯物の手触り、香り

流水の清々しさ、気持ちよさ

口にするものそれぞれの味わい

など、感じやすくなります。

 

五感をフル活用して「感じて味わう」

というのは、一定の時間が必要なようで

バタバタと急いでいる時には

できないのです。

 

日常の中にゆっくりと

「感じる時間」を増やすことは

心の健康に貢献します。

 

 

 

 

誰しもがよくやってしまうことだと思いますが

何かしている時に次やることを考えたり

「早くやらなくちゃ」と焦ることは

心に緊張を引き起こします。

 

これが心にはよくなくて

緊張すると、それが蓄積して怖れになり

不安や恐怖症などの原因になるのです。

 

やたら「どうしよう、どうしよう」とか

「早く、早く」と

焦る気持ちの時は要注意です。

自分を見失って緊張に支配されているのです。

 

そんな時こそ、まず立ち止まって深呼吸して

動作をゆっくりして

今、目の前にあるものを味わいます。

 

何かをしっかり感じて味わう時

人は不安からも緊張からも解放されています。

 

「感じて味わう」というのは

そのことに集中していなくてはできません。

次のことを考えながら

感じることはできないのです。

 

なので、感じている間は、しっかりと

今ここで自分自身でいるということ。

 

それが、普段の緊張や焦る気持ちを

和らげてくれるのです。

 

 

 

 

よくあるマインドフルネスや瞑想は

今ここに集中することで心を解放して

心身を健康にするものです。

日常の中で感じることを大切にすることで

同じような効果が期待できると思います。

 

 

 

 

アダルトチルドレン

いつも緊張状態でいるので

リラックスすることが大切です。

 

それにプラスして、感じて味わうことも

とても大切なのです。

 

 

 

 

 

 

日常の中のなんてことない小さなことを

ひとつひとつ丁寧に

ゆっくりとしてみましょう。

 

すると、いろんな感覚が働いて

いろんなことを感じ

いろんな美しさや幸せに

気づけるようになります。

 

 

美しいものも、幸せも

すぐそばに、いつもあります。

 

 

 

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自分の良い所、悪い所

この世の中は、プラスとマイナスが

セットになっていると言われています。

 

ある物、ある出来事、ある人の中に

プラス面とマイナス面が

両方あるということです。

 

この靴はオシャレだけど履きづらい

入試に失敗したけど

そのおかげで今の仲間に会えた

あの人は誠実だけど面白みがない、などなど。

 

それは、この世の中のものすべてがそうで

コインの裏表のように

プラスだけとか、マイナスだけというのは

バランスが悪くてあり得ません。

 

 

 

 

 

自分にも良い所と悪い所があります。

好きな所、嫌いな所、と言いますか。

 

良い所と悪い所が合わさって自分なのです。

 

でも、人間は複雑な存在なので

単純に良い所、悪い所と

二分できるわけではありません。

 

悪い所だと思っていることが

実は良い所でもあったりします。

 

落ち着きがない→好奇心旺盛

細かい→よく気がつく

臆病→慎重

というように。

 

ということは、良い所と悪い所の境界線は

きっちりとしてるものではなくて

あやふや、もっと言うなら「ない」のです。

 

良いも悪いもないのです。

 

悪い所は、自分が悪いと決めて

嫌っているだけかもしれません。

 

公平な目で見ると、それは

「そういう所もある」というだけです。

良い悪いというより

そういう要素があるということ。

 

いろんな要素が

複雑に合わさっているのが自分なのです。

 

良い所(好きな所)だけ集めても

完全な自分ではありません。

悪い所(嫌いな所)があって

いろんな要素が全部あって

完璧な自分なのです。

 

 

 

 

 

 

自分と向き合うことを

真面目に、正直に、真摯にやっていくと

必ず、自分の闇にぶち当たります。

 

それは、とんでもなく醜いものです。

到底受け入れることはできないと

思うかもしれません。

 

そんな醜いものが自分にあると認めてしまうと

ただでさえ価値のない自分なのに

さらに価値を下げることになる。

そうなったらもう生きていけない

と恐ろしくなるのです。

 

これ以上下げられない

もっと上げること、得ることに必死なのに!

という感じです。

 

できれば、良い所だけ見て

自分のことを「良い人間」だと思いたい。

 

でも、この時の闇こそが

自分を完璧にする構成要素なのです。

 

 

 

 

 

 

弱さ、ずるさ、意地悪さ、冷酷さ

がめつさ、姑息さ、嫉妬深さ、残酷さ

攻撃性、依存性、差別意識、せこさ

残虐さ、怠惰、臆病さ、などなど。

 

(ちなみに、これらは↑闇という言い方をしましたが、「悪い」という意味ではありません。例えば、冷酷さはビジネスの場面では有能さにつながりますし、攻撃性は強さでもあり、自分を守る時に必要となります。嫉妬は向上心の源になる場合もありますし、これらは良い作用をする場合もあります)

 

こんな自分の闇要素に出会ってしまったら

怖がってなかったことにしてしまわないで

「へーなるほどー」と

とりあえず認めてあげます。

 

「自分にもそういう所あるんだー

うん、あるよねーあるんだねー」という感じ。

 

実は、自分の中には

すべての要素が含まれているのです。

だから、何を見つけても

本当はびっくりすることではないのです。

 

自分が気づいてない、自分が知らない要素が

きっとまだまだいっぱいあるでしょう。

自分はいろんな顔を持っていて

いろんな所を持っているものなのです。

 

それが嫌な面だったとしても

ひとつ見つけるごとに

ひとつ自分を知り

ひとつ自分を受け入れられます。

 

自分は、そうやって

ひとつ自分を受け入れるたびに

居心地が良くなって喜ぶのです。

 

だから、私は自分の嫌な面に気づけた時は

「あ、あった♡」とほっこりします。

そのひとつぶん、確実に

自分が楽になることを知っているからです。

 

 

 

 

 

 

いろんな所を持ってる

自分の多面性を許してあげます。

 

良い所も悪い所も全部

それが自分を構成しているのです。

そのどれが欠けても自分は不完全。

 

すべてを含んでいる壮大で複雑な自分を

そのまんま愛してあげるのです。

 

 

 

 

自分の受け入れがたい闇を受け入れた時

自分に対して、もう誤魔化したり

取り繕ったりしなくてもよくなり

今まで感じたことのない

安堵感を感じるでしょう。

 

 

 

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理想の子ども、理想のお母さん

アダルトチルドレン気質な親は

自分の子どもに理想の子どもになることを

押しつけがちです。

 

それは非現実的に高い理想です。

子どもが、親が考えるその非現実的に高い

理想の子どもになれてない部分があると

そこを日常的に注意、非難され

減点され続けます。

 

理想を追い求めるということは

「今のあなたはダメ」ということで

否定され続けた子どもは傷ついて

元気を失っていくでしょう。

 

 

 

 

 

一方、子どもの方も母親に

「理想のお母さん」であることを望みます。

 

人それぞれイメージがあるでしょうが

優しく穏やかで困った時は助けてくれる

いつも励まし応援してくれる自分の味方

子どものために何でもしてくれる

暖かい安全基地のようなお母さん

というように。

 

でも、現実の母親は違います。

 

子どもも、実は自分が思った通りの

愛情をもらえないことを怒っているのです。

 

 

 

 

 

理想の子どもじゃない!

理想のお母さんじゃない!

とお互いに相手を不満に思っているのです。

 

 

 

 

 

気づかなければならないのは

理想の子どもも、理想のお母さんも

幻想だということです。

 

どこにもいないし、なれることもありません。

なれたとしても、なる必要がありません。

 

現実にいるのは、未熟なお母さん

未熟な子ども、未熟な人間です。

 

あれができない

これが苦手

今は優しくできない

素直になれない

でこぼこだらけの人間です。

 

愛すべき未熟人間。

 

 

 

 

 

子どもが親の願い通りにならなくても

その子は

自分の個性を炸裂させているのです。

 

それはとても頼もしく、喜ばしいことです。

 

 

 

 

 

また、お母さんが子どもの思った通りに

愛してくれなくても

それも仕方のないことなのです。

 

お母さんは、その時に自分が持っている

知識、体力、心の力を総動員して

自分ができることは

精一杯したのかもしれません。

 

でも、お母さんは

できないこともたくさんある

未熟な人間だったのです。

 

お母さんは愛する能力が足りなかったのです。

 

 

 

 

 

子どもは

「自分が欲しかった愛をもらえなかった。

もう手に入らないのだ」という事実を認め

心から愛の欠乏を嘆き、悲しみましょう。

 

充分に悲しんだら、次へ進むことができます。

 

 

 

 

 

「より良くしよう」と理想を追い求めるのは

例えば、仕事や勉学、スポーツなどで

成長する時には必要なことかもしれません。

 

けれど、それを人に対してすると

途端に苦しくなります。

 

親子でも、他人に対してでも

自分自身に対してでも

理想を求めると

それは否定につながるのです。

 

「今のままじゃダメ。もっと、もっと」

ということです。

 

もし、理想にこだわる自分がいたら

本当に人は完璧でなければいけないのか?

本当に人は理想通りでなければならないのか?

と、自分に聞いてみるといいですね。

 

「そうだ」と返事があったら

「それはなぜなのか?」と聞いてみましょう。

そこに心の傷があるかもしれません。

 

 

 

*〜〜〜*〜〜〜*〜〜〜*

 

 

 

でこぼこな人

ちょっと欠けてる人

変わってる人

ユニークな人

未熟な自分。

 

みんな、そのまま、それでいい。

未熟なまんま、それでいい。

 

未熟な自分を許すと

未熟な他人も許せるようになります。

 

 

 

 

世の中そんなもんだ、と諦めると

生きるのが楽になります。

 

 

 

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我慢や無理をすると怖れが溜まる

アダルトチルドレン

リラックスすることが苦手です。

 

子どもの頃

安心してくつろげる環境にいなかったのだから

リラックスできないのは当たり前です。

 

アダルトチルドレンの子どもの頃の日常は

いつ自分の身に危険が及ぶかわからない

緊張状態なのです。

 

親の情緒が安定していないと

子どもらしく無邪気に

わがままを言うこともできません。

あるがままではなく我慢している

ということです。

 

 

 

 

 

私の子どもの頃の家では

いつ母の顔色が変わって

金切り声が飛んでくるかわからないので

私はいつも緊張していたように思います。

私は家ではあまり笑わない子でした。

 

調子に乗ってはしゃぐと、言葉で

その鼻をへし折られるという経験を

繰り返していたので、私は

家でははしゃがないようにと

用心していました。

 

でも学校では、私が楽しそうにしていても

誰にも咎められなかったので、私は

「学校は楽しいところだな」と思いました。

 

今思えば、学校なんて決まり事が多いし

集団行動だから自由にできないし

人の目もたくさんあって

むしろしんどい場所ではないか

と思うのですが、そんな場所でも

私にとっては家よりも

「自由」な場所なのでした。

 

いかに家で親に監視され、管理されて

縛られていたかわかります。

 

 

 

 

 

私のように、子どもの頃

リラックスしてあるがままでいるのでなく

我慢したり無理したりするのが日常だと

自分の身の中にストレスは

どんどん蓄積していきます。

 

心はじわじわと疲労を溜めていきます。

 

我慢や無理というのは

自分にとっては緊張状態です。

実はその緊張の最たるものが怖れです。

 

長年、我慢や無理をし続けると

自分の中に怖れが溜まっていくのです。

 

不安障害やパニック症は

長年我慢を重ねて怖れを溜めて

心が疲弊して誤作動を起こしているのです。

 

 

 

 

 

残念ながら、子どもの頃に

リラックスして過ごせなかったというのは

もう取り戻せません。

 

でも、今から

自分をリラックスさせてあげようと

日常を変えることはできます。

 

 

 

 

 

まず、もうこれ以上

自分に我慢や無理をさせないこと。

可能な限り、日常の中から

我慢や無理を取り除いていきます。

 

自分で自分に無理させている場合が多いので

自分に完璧を求めることを優しくやめます。

それは仕事をセーブすることや

役割を果たさないことや

進路を変えることかもしれません。

 

そして、自分にプレッシャーを与える人とは

距離を取っていきます。

その人は自分の人生において

本当に大切な人なのか、自問自答します。

 

そして、適当なところで休んだりして

自分が辛いと思うことはしないことです。

 

 

 

 

 

そうして、我慢や無理を

可能な限り取り除いてから

自分がのんびりとくつろげるように

リラックスする時間をプレゼントします。

 

自分が緩むことができれば

何でもいいと思います。

 

お勧めなのは、

自然の中にのんびりと身を置くこと。

お散歩、釣り、キャンプ、山登り、海を見る

畑仕事、ガーデニング、などなど。

大袈裟なことでなくても、ただ

川辺を歩くとか、空を眺めるだけでもOKです。

 

動物と触れ合うのもいいですね。

私もうちの猫を触ったり

毛に顔を埋めて匂いを嗅いだり

猫の心臓の音やゴロゴロ音を聴いたりすると

はぁ〜♡と力が抜けて癒されるのを感じます。

 

マッサージなど、人に自分の体に触れられて

ケアされるものもお勧めです。

中でも、針治療はピンポイントで

固くなってる筋肉を緩めてくれるので

めちゃくちゃ気持ちいいです。

 

体からのアプローチという点では

ストレッチ、ヨガ、太極拳なども

いいと思います。

 

それにつながっていますが

呼吸を深くするというのも

手軽にどこでもできるリラックス法です。

 

瞑想を毎日の習慣にするのも

ストレスに対抗するには有効です。

日々の煩わしさから解放され

心の負担が減る健康法です。

 

ほかにも、好きな音楽を聴いたり

好きな香りを嗅いだり

自分を緩める方法はたくさんあるでしょう。

 

それは人によってそれぞれで

自分の快適は自分にしかわからないので

自分にどんどん「これは?これは?」と

プレゼントしてみるといいのでしょうね。

 

 

 

 

 

我慢や無理をし続けると

心が疲れて健康を害します。

 

だから、自分に我慢や無理をさせないで

なるべくリラックスをさせてあげる。

ずっとリラックスすることができなかった

アダルトチルドレンは、特に

リラックスして緩むことが大切なのです。

 

 

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怒りを溜めると人から怒られる

自分の中に怒りを溜めると

腹立たしい出来事によく遭うようになります。

 

それと似たような現象で

「怒っている人によく会う」

というのもあります。

 

 

 

 

道端でケンカしてる人

一人で文句言ってる人

電車の中で怒り出す人、など。

 

中でも一番嫌なのが

こちらに怒りをぶつけてくる人です。

 

怒りの原因は、ほんの些細なことや

ほとんど言いがかりのようなものばかり。

 

前を歩いていただけ、とか

通りすがっただけ、などです。

 

相手にとっては

何か気に触ることがあったのでしょう。

突然怒鳴られたり、舌打ちされたり

文句言われたりして

とにかく怒りをぶつけられます。

 

 

 

ただでさえ、こちらも

無意識とはいえ怒りを溜めている身です。

この時の不快感といったらありません。

 

八つ当たりの対象になっているだけなので

理不尽感が半端ないし

怒りで応戦したいけれど

「いい人」なのでそれもできない。

とにかく気分悪く、腹が立って

最後は悲しくなってしまいます。

 

人から怒りをぶつけられるというのは

理由なんてどうであれ

それだけで傷つく体験です。

 

傷ついた時は

リアルに胸のあたりが痛くなります。

本当に嫌な、できれば避けたい体験です。

 

 

 

 

でも、これも自分自身が自分の中に

怒りを溜めているから起こる現象なのです。

 

 

 

怒る人たちが自分の目の前に現れて

「自分の中にも怒りがある」

と気づくためです。

 

目の前の怒る人たちは

実は自分自身を映した姿なのです。

 

なので、自分に対してでも

自分に対してじゃなくても

怒っている人を目にしたら

立ち止まって自分と向き合う時です。

 

「何か怒ってることあるんじゃない?」

と自分に問いかけてみます。

 

それで、自分の怒りを認めて

しっかりと感じてあげると

怒る人たちは現れなくなります。

 

おもしろいくらいに

ぱったりと現れなくなります。

 

 

 

 

このことに気づく前

怒りを溜め込んでいた私は

それはそれはよく嫌な思いをしました。

 

道を歩いているだけで

よくいろんな人から怒られたものです。

 

怒鳴り散らしながら闊歩するおばあちゃんや

道端で罵り合うおじさんなどにも

よく会いました。

 

だから私は外を歩くのが怖くて

人の怒りをかわないように

周りをキョロキョロしながら歩いてました。

 

世の中は怖いし、嫌な人だらけだ

この世は嫌なところだ、と思っていました。

 

でも、どんなに私が

人の怒りをかわないように気をつけても

怒っている人は現れ続けました。

 

 

 

 

 

転機になったのは、やはり

自分と向き合うことを始めたことです。

 

自分の心の中を見つめ

自分がどれほど怒っているのか

言いたいことは何なのか

少しずつ掘っていき、わかってあげました。

 

「ああ、そうか、そうだったんだね。

すごく嫌だったね。怒っているね」

と自分に寄り添い、わかってあげると

気づいたら

怒る人は現れなくなっていたのです。

 

それで「ああ、あの人たちは

このことを教えてくれたんだな」

とわかったのです。

 

 

 

 

今でも、たまに怒っている人に遭遇すると

自分を振り返ります。

すると、例外なく自分の中に怒りがあります。

 

なので、今では周りの人や世界は

自分の心を映すバロメーターとして

活用しています。

とてもわかりやすく便利です。

 

 

 

 

目の前の怒る人たちは

「あなたの中に怒りがあるよ。

感じて流してあげてね」と

教えてくれた存在だったのです。

 

そこまで腑に落ちると

傷ついたり、腹が立ったりした思いも

優しく流れていきます。

 

 

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怒りを溜めると怒りたいことが起こる

アダルトチルドレン

感情を素直に感じるのが苦手です。

 

 

 

特に、怒りなどのネガティブな感情は

感じるのがしんどいので

なかったことにして、そのまま

しまいこんでしまうことがよくあります。

 

「怒ることはよくない」と禁止したり

「自分は怒ってない」と認めなかったり。

 

 

 

子どもの頃の親に対する怒りは

自分の生存を脅かす危険なものだったので

それはとても認められず

その怒りを自分に向ける

ということをよくしてしまいます。

 

「親に対する怒りが自分の生存を脅かす」とは

親と敵対するということは

自分を保護してくれる存在を失うことと

イコールということです。

 

だから、それは決してあってはならず

どんなに酷い親でも、小さな子どもは

「悪いのはお母さん(お父さん)じゃない。

自分が悪い子なのがいけないんだ」と

思うことにします。

その方がまだ心の平穏が保てるからです。

 

 

 

そうやって、本当は感じている

親に対する怒りをないことにするのを

子どもの頃からずっと続けているのですから

大人になっても、日常的に

怒りを感じるのは苦手なのだと思います。

 

アダルトチルドレンにとって

怒りは危険な感情なのですね。

 

 

 

そんな怒りという感情ですが

怒りを抑圧すると、その時は楽なのですが

心の中には怒りが溜まったままで

日常的にそれを繰り返していると

怒りはどんどん溜まっていく一方です。

 

すると、どんどん苦しくなって

何を見ても腹立たしく感じ

年中イライラしてしまうことになります。

 

必死に隠しているけれども

怒りが漏れちゃってる感じです。

 

 

 

そこまでくると、まるで

「さあ!思う存分怒ってください!」

とでもいうような、自分にとって

腹立たしいアクシデントやトラブルに

よく遭うようになります。

 

みんなでお店に入ったのに

自分の傘だけ盗まれたり

自分の注文したものだけ遅かったり

自分の席にだけゴミがあったり

自分だけ丁寧に扱われなかったり

イラッとすることが起こります。

 

それは「怒りたいんでしょう?

怒っていいよ」という

自分の心の底からのメッセージです。

 

 

 

私は今までの経験上

怒りたいことが続いたら

一度立ち止まって

自分を振り返ることにしています。

 

「何か怒りたいことがあるんじゃない?」

「目の前の細々としたダミーの怒りではなく

本当に怒りたいことがあるんじゃない?」

と自分の本音と向き合うのです。

 

素直に自分の心の中を眺めて

溜めてしまったあれやこれやの怒りを

「私は怒っている」と認めて

しっかりと感じます。

 

すると、自分に起こっていた

腹立たしいアクシデントやトラブルは

ピタリと起こらなくなります。

 

感情はいつでも感じて欲しがっていて

それを「ある」と認めて

しっかり感じてあげれば流れていき

もう何も訴える必要がなくなるからです。

 

 

 

不思議なことのようですが

自分の心は周りに反映されるので

こういうことが起こります。

 

 

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自信を持ちたかったら自分のことは自分で決める

「自分のことは自分で決める」

シンプルでわかりやすいことです。

 

でも、アダルトチルドレン

これがなかなかできないという人が多いです。

 

 

 

 

自分の進路、就職先、結婚などを

親が決めるというのは、わかりやすく

自分のことを自分で決めていません。

 

でも、そうではなく

自分で決めていると思っていても

実は自分で決めていない

ということもよくあることです。

 

例えば、親の意向に従う、夫の許可が必要

人の勧めやアドバイスを取り入れる

人の好みを先回りして優先する、など。

 

「はっきりと誰かに命令されたわけではなく

自分でこうした方がいいかなと思うから

そうした」という感じだと

自分でそれを選んだと思うかもしれません。

 

中には、本当に自分の意志と

人のアドバイスが一致している場合もあり

その場合は問題ありません。

 

でも、自分の本当の気持ちよりも

他者の意向の方が大きく自分に影響して

それを優先し従ったというのなら

それは自分で決めたとは言いがたいのです。

 

「自分で選ばない」ということを

自分で決めたとは言えますが

自分の本当の気持ちから自分のために決めた

とは言えません。

 

 

 

 

「自分のことは自分で決める」とは

自分の本当の気持ちとつながって

自分のために選ぶことです。

 

これがしたい、これが好き

これを自分に与えたい、と自分が思うこと。

そこに他者の気持ちは入りません。

そのくらいきっぱりとしているものです。

 

 

 

 

自分のことを自分で決められず

他者に決めてもらっていると

自分は弱い存在で無力だ

と感じるようになります。

 

本来持っている力は奪われて

自信も持てません。

だから、外の世界が怖いと感じます。

 

自分自身を他者に明け渡してしまうと

自分の力は奪われてしまうのです。

 

だから、自分の尊厳は自分で守り

大切な自分のことは自分で決めます。

 

 

 

 

慣れないうちは

日常のことを丁寧に選んでみるといいですね。

 

何を食べるか、何を着るか

この時間をどう使うか、など。

 

いつも自分で選んでいるようでも

意識してみると、意外とそうではなく

安いからとか、いつもそうだからとか

惰性で選んでいる場合も多いです。

 

いつもそれを選んでいても

「本当にそうしたいの?」

「本当にそれがいいの?」と自分に問うと

違う答えが返ってくるかもしれません。

 

そうして丁寧にひとつひとつ

自分と向き合うことで

本当の意味で、自分のことを

自分で決められるようになるのだと思います。

 

そして、何を大切にするか

どう生きるか、という人生のことまで

自分で決められたらいいですね。

 

 

 

自分のことを自分で決められた時

そんな自分が誇らしく

失われた自信も回復してきます。

 

心は満たされていき

生きるエネルギーが湧いてきます。

 

 

 

自分に自信を持ちたければ

自分のことは自分で決めましょう。

 

それはまた「人のことはその人が決める」

ということでもあります。

 

そうして、お互いが自分の責任を負い

お互いが自立しているのが

健全な関係と言えるのです。

 

 

 

「決める」とはその人の力なのです。

 

 

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