心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

エゴが激怒して私を責めている

 

 

以前の私は

いつも自分を責めてばかりいました。

 

 

 

なんだかモヤモヤざわざわする時

その気持ちを掘り下げていくと

必ず、自分を責める声に行きつきました。

 

 

 

 

エゴは、いつも元気でやる気が漲り

ワクワクと人生を充実させることを

理想としています。

 

なので、そうじゃない自分

不調な自分、めんどくさい自分を

咎めています。

 

エゴは、自分の肉体に感謝するどころか

不調になる体に腹を立てて

「そんなに弱いのなら消えろ!」と怒ります。

 

 

 

私は、虚弱で自分の思い通りにならない

この体が嫌いでした。

 

体のことも、自分自身のことも許せなくて

「どうしてできない?

どうして立派になれない?

お前は何もできないダメ人間だ」

と怒りでいっぱいでした。

 

エゴが、理想通りにできない自分に

激怒していました。

 

 

 

私は、その怒りの声をすべて聴きました。

そして、「エゴの望みはわかった。

そう思っているんだね」と受け止めました。

 

そうして、自分に対する怒りの声を全部聴いて

受け止めたら、なんとなく

少し気持ちが楽になった気がしました。

 

 

 

 

 

そして、そのあと

エゴの言う「不調な自分はダメ」という言葉を

「本当にそうだろうか?」と思いました。

 

 

 

人間は、心や体に偏りがあると、

それを戻そうとする機能を持っています。

その戻そうとする時に

痛みや風邪や不調となって現れます。

 

その不調は

人間が自然の一部である証拠です。

自然であることの現れなのです。

 

だから、たまに不調になったり

体調に波があるのは自然なことなのです。

 

 

 

私は、エゴこそが

理想に執着して偏っていると思いました。

エゴの望みは自然に反しています。

いつも元気いっぱいなんて、不自然です。

 

その不自然なエゴの望みを

自分を責めながら

叶えなければならないのでしょうか?

 

私は、その必要がないことに気づきました。

 

 

 

 

 

私は、エゴの理想は認識しつつも

自分の自然な状態は

そのまま受け入れようと思いました。

 

 

 

私は、何も否定しないし

何とも戦わない。

 

私は、自分にこうあってほしいと期待しない。

私は、自分にこうあってほしいと要求しない。

私は、自分を責めない。

私は、自分を罰しない。

 

できない自分を許し、受け入れる。

エゴの言う理想や

こうでなければならないものと

私は違うけれど、私を許す。

そのまま許す。

 

 

 

もう、私のことを許す。

 

 

 

 

 

 

私は、自分という存在が

どんな存在であるか自覚して

敬意を払おうと思いました。

 

 

 

私は、命です。

 

 

 

私は、私のままでいいのです。

 

 

 

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ひとりで抱え込まない

 

 

最近、歳のせいか膝や腰が痛くて

しゃがんだり、かかんだりが辛いです。

 

 

 

家事は意外としゃがむ、かがむ、が多くて

いつもおばあさんのように

どこかに捕まって立ち上がったり

「よっこらしょ」と声が出てしまったり

しています。

 

機敏に動けない立ち振る舞いが

我ながら「おばあちゃんじゃん」と

思っています。

 

膝、股関節、腰、肩、首など

どこも痛くないと若い頃のように

スッとしなやかに動けるのですね。

 

 

 

 

先日、駅のホームで老夫婦が

ベンチに座るなり

「あーしんど」と口々に言っていました。

 

私は「わかる…わかるよ…」と思いました。

でも、その歳になったら

今の私の「わかる」よりも

もっとしんどいのかもしれません。

 

その歳にならなければ

わからないことってあるのですね。

 

 

 

 

 

そんなことで、最近、私は家事の中でも

特に、お風呂を掃除して作ることが

しんどいなと感じていました。

 

立ったり、かがんだり

背が低いので湯船の奥側に手を届かせるのが

ギリギリで無理な姿勢になったり

私的には重労働なのです。

 

でも、私は専業主婦。

夫は単身赴任で不在だし

長男は就職活動に失敗してうつ気味だし

次男は自分のこともままならない感じで

誰もできそうな人がいません。

 

「専業主婦だし、私がやるしかないよね」

と思って、痛いけれど我慢して

私がやっていました。

 

 

 

 

 

この時の私の思い込みは

「私がやるしかない」

「誰もできる人がいない」です。

 

この思い込みで、今まで

数々のことをひとりで抱え込んできました。

 

「助けてって言っちゃいけない」

「自分の仕事は自分でやる」

という思い込みも強くありました。

 

 

 

働いていた時も、すごく忙しくて

人から「手伝おうか?」と言われても

「大丈夫です!」と断り

「これは私の仕事だから私がやらなくちゃ」

とひとりで抱え込んでいました。

 

結果、忙しすぎて、ストレスで

頭痛、吐き気に悩まされてました。

 

でも、そうしてひとりで抱え込んでいると

いずれ自分が悲鳴を上げます。

「そういうしんどい生き方は嫌だ!」

と思って、私は自分を変えようと

ずっと自分と向き合ってきたのです。

 

 

 

 

 

このお風呂掃除についても同じです。

 

「専業主婦で自分の仕事なのに」

「みんなそれぞれ自分のことがあるのに」

「助けてって言いづらいな」

と、いくつもハードルがありましたが

「でも、自分の声を無視できない」

「考えてみたら実際みんなに聞いてないな」

と思い直し、自分を守る行動を取ってみよう

と思ったのでした。

 

 

 

 

 

私は長男に

「月に3000円あげるから

毎日お風呂掃除して作ってくれない?」

と聞いてみました。

 

「最近、膝と腰が痛くて」と言うと

長男はあっさり「いいよ」と言いました。

 

 

 

長男は、この春大学を卒業しましたが

就活がうまくいかず、元気をなくして

ずっと家にいました。

 

けれど、最近ちょっとずつ

エネルギーが戻ってきたようで

友達と会ったり、買い物に出かけたり

できるようになっていたのです。

 

お米などの重いものは

長男に頼むと買ってきてくれます。

お風呂掃除もその延長なのでしょう。

 

 

 

 

 

よくよく考えてみたら

お風呂掃除を長男がやることで

長男にもメリットがあることに気づきました。

 

 

 

まずは、篭りがちなので

運動不足の体を動かすいい機会になります。

 

 

 

また、勉強もしてない、仕事もしてない

何者でもない自分が嫌で

ストレスがかかっていたのが

毎日自分の仕事がある、役目がある

自分がそれをやることで誰かが助かる

という経験を積めます。

 

こういう小さな行動を繰り返すことで

失われていた自尊心を

取り戻すことができるのです。

 

よく引きこもり支援の現場では

立ち直る前段階で「家事をする」

という行動があるそうです。

 

家事ができるようになったら

だいぶ力が戻ってきた証拠。

 

「自分が何かすることによって

誰かの役に立つ」というのは

自信を取り戻すのに有効なのです。

 

 

 

それから、私は長男に

お風呂掃除をしたら月3000円あげる

と言いました。

 

「家の手伝いをするのにお金をあげるなんて」

と思われる方もあるかもしれませんが

これも、私は大切なことだと思っています。

 

就職もできず、バイトもできない長男は

当然収入がないので、うちでは

月に10000円のお小遣いをあげています。

 

 

 

これも引きこもり支援の現場で

よく問題になるそうですが

お小遣いはあげた方がいいそうです。

 

お金がない方が頑張って働こうと思うだろう

と思ってあげない親も多いそうですが

お金がないと人間としての欲がなくなり

余計に外に出る意欲がなくなるそうです。

 

それよりも、毎月決まったお金をもらえて

それを、好きなものを食べたり

欲しいものを買ったり、楽しんで

自分の自由に使える方が

生きる意欲も湧いてくるものです。

 

人間は、厳しく追い詰めたから

動くだろうというものではなく

やっぱり自分の好きなことをしたり

圧力のない自由な環境で力を蓄えて

やがて動けるようになるのだと思います。

 

 

 

そういうわけで、うちでは

月10000円のお小遣いを

あげているのですが、正直

私は足りないだろうと思っています。

 

私は気軽に、好きなもの食べに行ったり

欲しいものを買って楽しんでほしいので

もっとお小遣いを増やそうとするのですが

長男は気兼ねして受け取れないのです。

 

「10000円で足りる」と言い張ります。

 

でも、自分が働いた分の報酬なら

抵抗なく受け取れます。

たった3000円ですが、長男にとっては

意味のある3000円になるでしょう。

 

本当は外でバイトができたらいいですが

その前段階として、家で働いて

その対価を受け取るということが

できたらいいかなと思います。

 

それに、ADHDには

モチベーションを上げるのには

報酬が必要なのです。

(長男はADHDです)

 

 

 

 

 

説明が長くなりましたが

そんなわけで、お風呂掃除をすることは

長男にとってもメリットがあって

そして、私は痛いのを我慢しながら

しんどいことをしなくて済んで

みんながハッピーになったのでした。

 

つくづく、誰かひとりが犠牲になって

我慢や無理をするよりも

できる人ができることをやって

助け合った方がこの世界は調和するのだな

と思いました。

 

 

 

お風呂掃除は、自分で思っていたよりも

私の負担になっていたようで

「明日からやらなくていい」と思うと

本当にホッとして心が軽くなりました。

 

「私しかやる人がいない」と思い込んで

我慢しなくて良かったです。

「だめかもしれないけど

とりあえず一回聞いてみよう」と

口から出して言ってみて良かったです。

 

 

 

自分を守る行動ができて

私はとても満足しています。

 

 

 

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苦しさは自分を責める心から生まれる

 

 

苦しさは

自分を責める心、咎める心、

罰する心から生み出される。

 

 

 

自分という命への否定は

自分の生きる力を奪う。

 

 

 

自分を苦しくさせているのは

外側の出来事ではなく

無意識に

自分を責める心だけが原因なのだ。

 

 

 

自分は

自分を責めていないか。

 

 

 

責めているとしたら

何を責めているのか。

 

 

 

自分に問い、自分を見つめる。

 

 

 

 

 

* 〜 * 〜 *

 

 

 

 

もし、人から評価されないと

傷つくならば

それは、自分をおとしめている。

 

 

 

自分を人に明け渡している。

 

 

 

人のことを

その人がどれだけ頑張ったかなんて

本当のところはわからないように

 

自分がどれだけ頑張ったかは

人は知らない。

 

 

 

それを知っているのは自分だけだ。

 

 

 

だから、すべてを知っている自分が

自分をどう思うのか。

 

 

 

大切なのは、これだけ。

 

 

 

人は何も知らないで

情報がない中で評価を下すのだから

何の参考にもならない。

 

 

 

だから、人の評価はいらない。

 

 

 

自分は、自分をどう思うのか。

そして、どう扱うのか。

 

 

 

責める?咎める?罰する?

 

 

 

もしそうなら、それはなぜ?

 

 

 

 

 

自分の心の奥底をじっくり見つめる。

 

 

 

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自分の暮らし方

 

 

毎日毎日続く日常の中では

やるべきことが溢れてて

それをこなすことが優先になりがちです。

 

 

 

私も、やるべきことが残っていると

落ち着かなくて、つい

「先にこれやっちゃおう」と思うタチです。

 

やるべきことを先に終わらせて

それからゆっくり好きなことをしよう

と思います。

 

やるべきことが残っているというのは

気分的に落ち着かないものです。

 

 

 

 

 

 

でも、このやり方で暮らしていると

やるべきことがすべて終わったら

もう時間がそんなに残ってなかったり

疲れて何もしたくないと思ったりして

結局、やりたいことはやらないまま

その日が終わっていくということになります。

 

そうやって、やるべきことをこなす毎日は

ただ義務を果たすだけで楽しくなくて

活気もなく、ワクワクもせず

自分からエネルギーを奪っていきます。

 

そうして、これを続けていると

死んだように生きることになります。

 

つまんないなー、なんだかなー

という感じで、心が弾まないのです。

 

 

 

 

 

この状態は、ストレスも溜まるし

健康によくありません。

 

だから、私は自分の日常を

変えたいと思いました。

 

 

 

 

 

具体的に言うと

 

やるべきことをやらないという選択

やるべきことを途中でやめるという選択

やるべきことを後回しにするという選択

好きなことを先にする選択

日常の中に心地よさを取り入れる選択

 

をするということです。

 

 

 

 

 

「やるべきことをやらない」とは

そのままの意味ですが

自分がやるべきと思ってることは

本当にやらなきゃいけないのか?と

見直すということです。

 

別にやらなくても誰も困らなかったり

頻度を減らしても

大丈夫だったりすることもあるので

ただ、そういうものだと思い込んで

惰性でやってるものはけっこうあります。

 

それが好きでやってるならいいですが

そうでないならやめてもいいのです。

 

あるいは、それをやらないと

多少周りに影響があっても、たまには

「もう今日はやらない!」と

放り投げることを自分に許します。

 

これが自分に許せるようになると

毎日がとっても楽になります。

やるもやらないも

その時の自分の気分で選べるからです。

 

 

 

 

 

 

「やるべきことを途中でやめる」とは

例えば、何かをやっている途中で

「お茶が飲みたいな」「トイレ行きたい」

「ちょっと休憩したい」など過った時に

中途半端でも、すぐにやってることをやめて

心に過った自分の希望を叶える

ということです。

 

ちらっと思った自分の希望を

何より優先して叶えていくのです。

 

つい、「切りのいいところまで」と思って

やるべきことを最後まで続けてしまいますが

その「最後までやらなきゃ」を手放して

軽やかに自分の希望を叶えるのです。

 

途中でもやめることを自分に許すと

自分はとても自由で軽やかになります。

 

後から続けてもいいし

やめてしまってもいいし

「すべては自分の選択次第なのだ」

と思うと、自分に力が戻ってきます。

 

 

 

 

 

「やるべきことを後回しにする」とは

これをやらなければと強く思いすぎないで

後でやる、時間が余ったらやる、くらいに

テキトーに扱うということです。

 

なんなら「今日できなくてもいいや」くらい

緩く扱ってもいいということです。

 

こういうと、真面目な人は

「そんなこと言ってたら

やるべきことをやらなくなる!」と

ざわざわするでしょうが

その縛りこそ、緩める価値があります。

 

「やるべきことをやらなくちゃ!」が

自分を縛って苦しめているのですから。

 

「今日の仕事は今日のうちに」と

よく言われますが、これも縛りです。

別に今日じゃなくてもいいかもしれないし

全部が全部そうじゃない、と緩めると

自分も息がしやすくなります。

 

 

 

 

 

「好きなことを先にする」とは

自分のしたいことを一日の中で

真っ先にやるということです。

 

真面目な人や「べき」が強い人は

抵抗があってできないかもしれません。

 

でも、ここであえて

自分がやりたいことからやっていくと

主体的に生きる自分になれます。

 

自分は、やるべきことをこなす

ロボットではなく

やりたいことを自由にできる

人生を楽しむ人間なんだ、と

思えるようになるのです。

 

一日の始まりに

「今日は何をこなそうか」と思うのと

「今日は何をして楽しもうか」と思うのでは

心の弾み具合がまったく変わってきます。

 

だから、まずは楽しいこと。

それで、日常の中に煌めきが戻ってきます。

 

 

 

 

 

「日常の中に心地よさを取り入れる」とは

自分が喜ぶことを意識してやっていく

ということです。

 

誰にでも、これに癒される、これが好き

というものがあると思いますが

忙しい日常をこなしていると

それをわざわざ自分に与えることなく

バタバタと一日が終わっていきます。

 

自分が「これが好き」とわかっていても

わざわざ与えるということは

しない人の方が多いようです。

 

でも、ストレスがちょっとだけ溜まった時

こまめに、早めに

自分をほっこりさせてあげると

深刻なストレスの蓄積は起こりません。

 

だから、あえて自分に

「今、どうしたら気持ちいい?」と問い

それをやってあげるということを

日常に取り入れるのは

自分を大切にすることなのです。

 

本当にちょっとしたこと、些細なことでも

それがある毎日と、ない毎日では

カラーとモノクロくらいの差があるでしょう。

 

自分の心地いいことを、たくさん

リストアップしておくといいそうです。

 

数が多ければ多いほどよくて(100個以上)

たくさんの中からその時の自分に合うものを

選べた方がいいそうです。

 

ストレスの対処法がいつも同じなのではなくて

いろいろバラエティに富んでいて

その中から選ぶのがいいのです。

 

私の場合

ベランダの椅子に座って空を見る。

風に当たる。鳥のさえずりを聴く。

静かなピアノ曲を聴く。

昼寝。お風呂で温まる。

おいしいものを食べる。

散歩。緑を見る。ストレッチ。瞑想。

仏様にお線香をあげる。リンの音を聴く。

猫と触れ合う。ベランダの植物のお世話。

畳に横になって畳の匂いを嗅ぐ。

心の声をノートに書く。

ひとりでカフェにいく。

パン屋さんのパンを買う。

川辺を歩く。針に行く。マッサージに行く。

などなど。

 

こういう自分が心地いいと思うことを

日常の中に散りばめて

自分の暮らしを心地よくしたいです。

 

 

 

 

 

 

自分の行動は自分で選べるので

毎日を心地よく楽しくするのか

やるべきことをこなすだけで終わらせるのか

実は、自分が決めているのです。

 

少し意識を変えるだけ

ほんの少し勇気を出して

自分を許して緩めるだけなのです。

 

でも、ここを変えると

自分の人生は180度変わります。

 

完璧じゃなくても

ほんの少しでも

やってみる価値ありです。

 

 

 

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愛情飢餓感を認める

 

 

私は、ある日、突然

「お母さん!お母さん!」と泣き叫んでいる

インナーチャイルドに会って

自分の奥底の本音を知りました。

 

 

 

その子は、母親が大好きで

でも愛されなくて、悲しんでいました。

 

私は、その子に会って、自分の奥底に

確かにある愛情飢餓感を自覚しました。

 

その愛情飢餓感が

大人になった今でも

私の生活の細部まで支配していました。

 

 

 

 

私は愛がたまらなく欲しい。

優しくされたい。

守ってもらいたい。

特別に扱ってもらいたい。

認められたい。褒められたい。

 

常に、欲しい!欲しい!欲しい!欲しい!

 

 

 

過去に母親から欲しかったのに

もらえなかったものを

今、周りにいる人たちから

もらおうとしているのです。

 

それは、人からの尊重、肯定、承認。

 

 

 

それが欲しくて

人の役に立たなければ

人に好かれなければ

成果をあげなければ

評価されなければ

と思っているのです。

 

 

 

 

 

それと同時に、大人の私は、頭では

そうやって人からもらおうとすることでは

自分は満たされないと知っています。

 

評価も成果も人から好かれることも

自分の価値とは関係ないことも知っています。

 

 

 

その時、私の中には

はっきりと分離された大人と子どもの私が

同時にいたのでした。

 

インナーチャイルドに会うまでの私は

子どもの自分の存在に

気づいていませんでした。

 

「人から保護されたくて、愛されたくて

人の評価が一番大事な自分」

 

この自分の存在を認めると

それまでの自分の行動、反応が

理解できてすっきりしました。

 

 

 

気にすまい、自分の価値は変わらないと

わかっているのに、どうしても

人の評価に気分が左右される自分。

 

成果が得られないことはできないから

好きなことやろうとしても

何も浮かんでこない自分。

 

やりたいことをやろうとすると

すぐ人から評価されるものを選ぼうとし

でもそれは真の望みではないから

体が動かない自分。

 

働いてない自分に罪悪感がある自分。

家事が完璧ではない自分に罪悪感がある自分。

家でのんびり休むことに罪悪感がある自分。

好意を向けてくれた人に

心理的に依存する自分。

寂しくなって、とにかく誰かから

褒めてもらおうとする自分。

 

これら全部、愛情が不足して

欲しがっている子どもの私です。

 

 

 

子どもの私は

人から愛されることと、人の評価が

何よりも大事なのです。

 

 

 

大人の私は頭で理性的な理解があるのに

行動の選択は

無意識にいる子どもの私がしているから

私の人生はいつもチグハグで

バラバラなのでした。

 

だから、前に進みたいのに

一向に進めないのです。

 

 

 

 

 

 

そうやって

インナーチャイルドの存在を自覚して

その子の言いたいことや

欲しいものがわかってくると

 

その子は「お母さん!」と泣き叫び

母親を求めると同時に

大人の私にも「わかって欲しい」

と訴え続けていたことがわかりました。

 

 

 

現実の母が、再三の私の要求に

どうしていいのかわからず

応えられないのと同じで

 

私もまた

インナーチャイルドの要求がわからず

どうしていいかわからず

応えられていないのです。

 

つまり、母と私の関係と

私とインナーチャイルドの関係は

リンクしているのです。

 

「私=母」であり

「私=インナーチャイルド」です。

 

 

 

そう気づいたら

私は何十年もずっと、その子を無視して

優しくせず、守らず、認めず、尊重せず

愛さずにいたことを知りました。

 

その子が欲しいと言っているものを

何ひとつあげないで

その子をわかってもあげないでいたのです。

 

その子は、私に気づいてもらうことを

待っていました。

 

そして、私に「愛して欲しい」と

願っていたのです。

 

 

 

 

 

私は、その子に言いました。

 

「わかった。わかったよ。

寂しかったね。辛かったね。

今まであなたの気持ちに気づかなくて

ごめんなさい。

ずっと無視してきたことを許してください。

今まで頑張って生きてきてくれてありがとう。

あなたを心から愛しています。

これからは私があなたを愛して

あなたを満たしてあげるからね。

私が守ってあげるからね。

もう安心して大丈夫だよ」

 

 

 

私は、もしこれから子どもの私が

愛情飢餓感からの不適切な反応を見せても

直そうとしないで、そのまま

見守ってあげようと思いました。

 

そして、その子の話をよく聴いて

決して否定しないことを誓いました。

 

私は、そのままのその子と

仲良くしていくことにしたのです。

 

ずっと一緒に、共に生きていくのです。

愛すべき自分自身と。

 

 

 

 

 

 

このように、自分の愛情飢餓感を認めて

インナーチャイルドとの関係を修復すると

無闇に人から愛されようとしたり

異様に人の評価を気にしたりするような

人からもらおうとすることは

なくなっていきました。

 

それらはみんな

愛が足りないがゆえの誤作動なのです。

 

インナーチャイルドが欲しがっていた愛は

関係を修復してつながった

自分自身があげればいいのです。

 

自分が、ちゃんと自分を満たしていれば

人からもらう必要はありません。

 

だから、やっぱり自分との関係が大事。

自分との関係がすべてなのです。

 

 

 

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利己的でもいい

 

 

だいぶ前の話ですが

ある日、夫が

「今日はさんまが食べたいから俺が焼く!」

と言って、さんまを焼いたことがありました。

 

夫は、料理が苦にならないタイプで

その時もいそいそとさんまを焼きました。

 

 

 

焼き上がったさんまは

ふっくらとおいしそうなのもあれば

内臓が破裂して爆死したようなのも

ありました。

 

「さあ、食べよ〜」となって

家族みんなにさんまを配膳する夫。

 

夫は、自分にはふっくらとおいしそうなさんま

子どもたちには爆死したさんま

私にはその中間くらいの微妙なさんまを

配膳しました。

 

私は心底驚きました。

 

「自分が作って自分が配膳するのに

自分にいいのを持ってくるなんて

どんな神経をしてるんだろう⁉︎」

 

それは、非難しているのではなくて

「こういう神経になりたい!」という

羨望のような気持ちです。

 

私は、夫に

「自分が一番いいのを食べるなんて

本当に羨ましい神経してるよね」

と言いました。(褒めています)

 

夫は「え?だって俺がさんま食べたい

って言ったんだから、いいでしょ?」

と悪びれもしない様子です。

 

そして、そのことは意にも介さず

「おいしそう〜。うん!うまい!」

とただ、さんまを味わい喜んでいるのです。

 

 

 

夫は、自分が周りからどう見られているか

自分はどう振る舞うべきか

周りの人の機嫌はどうか、など

考えていないのです。

 

夫は、ただ自分の欲望に忠実に

自分を喜ばすことを第一に考えているのです。

 

 

 

 

 

同じ状況だったら、私は

自分には一番良くないもの

人には良いものをあげます。

 

それは、別に間違いではないと思いますが

でも、そうじゃなくてもいいのかも?

と思いました。

 

 

 

 

 

 

私は、いつでも人を優先していました。

 

人を優先し、人に迷惑をかけないようにし

無意識にそうやってすべてを選んでいました。

 

人に迷惑をかけてまで

自分のやりたいことをやる選択はありません。

 

むしろ自分が犠牲になって

周りの人の気分が良くなるように

していたのです。

 

それは

自分には価値がないと思っているからで

自由に自分でいるだけではダメで

役に立って、人を良い気分にさせなければ

いけないと思っているからです。

 

 

 

エゴは、私を奴隷のように扱い

「役に立たなければダメだ。

自分を犠牲にしてでも

人のために尽くさなければダメだ」

と強く言っていました。

 

エゴは、私に対してはいつも

「NO!」と言っていました。

 

私は蔑ろにされて、顧みられずにいました。

 

そうして、私は破壊されていたのです。

真の私は、殺されていたのです。

 

 

 

自分を犠牲にして、人を優先するのは

自己破壊することなのです。

 

自分を犠牲にすることや

人を優先することは

美談でも善行でもないのだ、と気づきました。

 

 

 

 

 

このように、自分が犠牲になったり

人のことばかり優先して考えていると

本当の自分へのダメージは想像以上です。

 

癌や、命に関わる難病などになる人は

こういう人に気を遣うタイプの人が

多いそうです。

 

そして、このような病気になっても

そのあと医師や看護師などに

わがままを言う人は予後が良いそうです。

 

人間は利己的な部分を必ず持っていて

周りを気にせず、自由に伸びやかに

「本当の自分」を表現した方が

心はもちろん、体にもいいのです。

 

 

 

 

 

だから私は、自分の欲望に忠実で

ある意味、利己的な夫が

羨ましいと思いました。

 

自分が焼いたのに

爆死したさんまを人に食べさせることは

私にはできそうもないと思いましたが

それでも、自分だけは蔑ろにしていいのだ

という態度はやめようと思いました。

 

他の人の気分を気遣うのと同じように

自分の気分も良くしてあげよう。

自分にも良いものを食べさせてあげよう。

自分を犠牲にしたり

自分に失礼なことをするのはやめよう。

 

そう思ったのでした。

 

 

 

自分が一番大切です。

自分が一番

優先して考えてあげなきゃいけない存在です。

 

自分を大切にすることに

誰の許可も必要ありません。

 

今、この瞬間から

自分を大切にしていいのです。

 

そうして、自分を大切にしている人は

周りの人にも大切にされて

愛されているのです。

 

 

 

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砂糖依存症だった

 

 

私は、3か月前に、キネシオロジーという

潜在意識の声を聞く方法で

自分に合う食品、合わない食品を調べました。

そして、食生活をがらりと変えました。

 

 

 

その結果がこちら。

 

【合わない食品】

白米、小麦、大豆、白砂糖、もち米

コーヒー、紅茶、ごま油、牛肉、豚肉

乳製品、葉物野菜やイチゴ(無農薬ならOK)

添加物や農薬は基本NG

 

【合う食品】

玄米(一日一膳まで)、コーン、そば

大麦、芋、野菜全般、卵、鶏肉、魚介類、塩

甜菜糖、ココナッツミルク、モリンガ茶

アーモンドミルク、デカフェ紅茶

 

【注意する食品】

こめ油、オリーブオイル(少量ならOK)

 

 

 

 

 

この結果を受けて、私は

「本当に自分に合う食品だけで

生きていけるのだろうか?」と不安でした。

 

本音としては「無理だよね…」。

 

白米、小麦粉、大豆、砂糖がダメだと

それまで食べていたものは

ほとんど食べられなくなるのです。

 

おいしいものには小麦粉が入っているし

だし、調味料にはほとんど砂糖が入っています。

 

「無理だな」とは思ったのですが

とりあえず3週間だけ実験的にやってみようと

挑戦することにしました。

 

「別に一生というわけではない。

3週間だけだ」と自分に言い聞かせながら。

 

 

 

 

 

 

始めの3週間は、特に厳密に

自分に合わない食品は取らないようにしました。

 

主食は玄米、オートミール、ふかしたお芋

砂糖なしのコーンフレークに

アーモンドミルクをかけて。

おかずは、野菜、卵、鶏肉、魚介類を中心に

味付けは天然塩とコショウだけで

煮たり焼いたりして食べました。

 

 

 

すると、野菜それぞれの味や

レタス、にんじんってこんなに甘いのか!

など、新しい発見もありましたが

やっぱりどうにもこうにも味気なく

気分はだんだん落ち込んできました。

 

憂鬱で、落ち込んで

体は怠くて鉛のようです。

 

こんなに辛いなら、おいしいものを食べて

ハッピーになった方がいいのではないか?

と思いました。

 

 

 

実は、これは小麦粉と砂糖依存症の

離脱症状だったのです。

 

頭痛やめまいがすることもあるようですが

私の場合は、体の怠さと気分の落ち込みでした。

 

この症状が辛くて、なかなか食生活を

変えられないという人も多いようです。

 

私も、好きなもの食べて

ハッピーになった方がいいのでは?と

気持ちが揺れたのですが

「これは離脱症状だ」という自覚と

「3週間だけだから」という期間限定の

気軽さで、とりあえず3週間だけ

やってみようと耐えました。

 

 

 

離脱症状という自覚がない時は

本当に辛くて、気分も暗かったのですが

途中で「私は砂糖依存症だ。

これは離脱症状だ」と自覚してからは

症状に対する認識が変わって

不思議とそんなに辛く感じなくなりました。

 

「病気である」とか

「こういう理由で起こっている」と

自覚すると、こんなにも態度が変わるのかと

とても勉強になりました。

 

だから「自覚する」って

大事なんだなと思います。

 

 

 

体の重だるさは2週間くらい続きました。

でも、それを過ぎると

すっきりと軽くなっていくのがわかりました。

 

 

 

他の変化としては

トイレに頻繁に行くようになったこと。

大も小も両方どんどん出ました。

体に溜まった老廃物を

排出していたのだと思います。

 

あと、私は手の指の付け根に湿疹がたびたび

出ていてステロイドを使っていたのですが

その湿疹が酷くなりました。

それは1か月以上続きましたが

2ヶ月目に入った頃に消えました。

 

これも、体に溜まった毒素を

皮膚から排出していたようです。

好転反応です。

 

 

 

 

 

「3週間だけ!」と思っていたのですが

3週間経つ頃には、新しい食生活に慣れていて

離脱症状も治まり、体調もいいので

結局、4か月目に入った今でも続けています。

 

 

 

今感じている体の変化は

胃痛、頭痛がなくなったこと

便通がよくなったこと

睡眠時間が減ったこと

朝の目覚めがすっきりしたこと、です。

 

体調が悪くしんどいということが

なくなりました。

あんなにしつこかった頭痛がないのは

本当に嬉しいことでした。

 

 

始めの頃は、スーパーのスイーツ売り場の

前を通ると、勝手に唾液が出てきて

「体の反応ってすごいな!」

と感心したのですが、今はそういう

欲する感情が湧かなくなりました。

 

やっぱり体調がいいので

それを崩してまで食べたいとは

思わなくなったのです。

 

とは言え、あんまり厳密にやりすぎると

窮屈なので、今は少し緩めています。

 

調味料は使うし、各種だしも使います。

食品添加物も少々は目をつぶります。

 

体に合わない食品もたまには取ります。

けれど、そのあと手の指の付け根に

ちゃんと湿疹が出るので

体は正直だなとほっこりします。

 

 

 

家族はみんな、何でも食べますので

家族の食事は普通に作って

自分の分をまた別に作るので

それがちょっと面倒くさいです。

 

 

 

こうして食生活を変えてみると

私は今まで何十年も

甘いものやおいしいものに癒されて

支えられて生きてきたんだなと思いました。

 

愛情が足りない人は

甘いものが好きだそうですが

私はまさにそれで、辛い時、寂しい時

疲れた時、甘いものを食べて

自分を満たしていたのです。

 

本当に幸せになれました。

甘いものがなかったらと考えると恐ろしく

本当に救ってもらったなと

感謝の気持ちでいっぱいです。

 

これからも、たまには甘いものを楽しみますが

この状況になったということは

きっと、もう甘いものに頼らずに

自分で自分を満たすことができるのでしょう。

 

そう思って、過ごしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

絶対に無理!と思った

自分に合うものを食べる食生活。

やってみたら、案外無理じゃなかったです。

 

もちろん、ちょっと緩めたり

チートデーで好きなもの食べたりと

厳密ではありませんけれど

自分の体の様子を見ながら

臨機応変にやっていこうと思います。

 

今は、負け惜しみでも、無理してるのでもなく

本当に、自分に合うものを食べることが

心地よく感じています。

 

きっと体にかかる負担が少ないので

体がいい感じになって

それが心にも影響しているのでしょう。

 

これからも、体の声を聞きながら

自分と付き合っていきたいです。

 

 

 

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