心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

「あんたってパッとしないね」

 

 

 

「あんたってパッとしないね」

私が母からよく言われていた言葉です。

 

この言葉が、私を苛み

縛りつける呪いの言葉になりました。

 

 

 

母は、私を褒めませんでした。

ちょっとくらい何かが上手くできても

「そんなの普通だ」とでも言うように

スルーです。

 

そして、特別上手くできなかった時

要するに普通な時は

「あんたってパッとしないね」と

ガッカリするのでした。

 

母は、特別に素晴らしいもの

誰もが認めるすごいことを望んでいて

それに達しないものは価値がなく

「パッとしない」と思うのです。

 

 

 

母は、子どもが素晴らしい存在になって

母親である自分の価値を高めて

自分の自尊心を満たしてくれることを

望んでいたのだと思います。

 

だから、普通の子どもではダメなのです。

普通の子どもでは、自分がもてはやされ

チヤホヤされないのですから。

 

 

 

私は、母が望む素晴らしい子どもではなくて

(何かで一番で右に出るものはいないとか

素晴らしい才能を持っているとか)

特別な才能のない平凡な子どもでしたので

母は落胆していました。

 

私にガッカリして、落胆するたびに

「あんたってパッとしないね」

と、ため息まじりに言うのでした。

 

 

 

 

 

私は、母にガッカリされるたびに

自分で自分にガッカリして

悲しい気持ちになりました。

 

「本当に自分は何をやってもダメな人間だ。

自分には価値がない。お母さんを

一度も喜ばすことができないなんて」

と、私は心の底から思いました。

 

 

 

だから、私は

「人とは違う特別な存在であることが大事」

という価値観を身につけました。

 

普通ではダメ。その他大勢ではダメ。

当たり前のことをやっているだけではダメ。

誰でもやっているようなことを

やっているだけではダメ。

 

なぜなら、それでは「パッとしない」から。

 

 

 

私は、特別な存在になること

みんなから褒められて

認められる存在になることを

自分に望むようになりました。

 

私にとって、良いものとは

「お母さんが喜ぶもの」。

母が喜ばないものには価値がないのです。

 

母は、特別じゃないと喜ばない。

 

私は、優れていないと

この世に存在する意味がないと思いました。

 

 

 

 

 

 

でも、いくらそんな観念を植えつけても

実際の自分はどうがんばっても平凡で

特別に優れた存在になどなれません。

 

大人になった私は、平凡に

ただ家事をして、子育てをしている

専業主婦なのでした。

 

だから、こんな自分は許せない

輝けない自分は生きている価値などない

と、本気で思い

この思いに長年悩まされ続けました。

 

「お母さんがガッカリするような私は

この世にいらない」と思いました。

 

 

 

 

 

この思いは本当に強くて

しつこかったのですが、今思えば

これも、ただの間違えた思い込みなのです。

 

まず、ツッコミどころとして

「良いものはお母さんが喜ぶもの」

というところ。

 

大人になった自分が冷静に考えると

「え、なんで?」となる法則です。

 

なんでお母さんが喜ぶものが良いものなの?

お母さんが喜ぶものはお母さんが喜ぶもので

良いものは他にもいっぱいあるんじゃない?

 

それにお母さんが喜んでも、喜ばなくても

その責任は私にはないよね?

それはお母さんの問題だよね?

 

お母さんが喜ぶ、喜ばないは

お母さんの価値観によって決まるけど

それはお母さんの世界の話だよね?

 

私がお母さんの価値観で生きる必要なくない?

私は、私の価値観で生きていいよね?

 

お母さんを喜ばすために生きるのではなく

私は、私が喜ぶ生き方をしてもいいよね?

 

と、呪いが解けて目が覚めると

こんなふうに考えられるようになりました。

 

 

 

また、「優れていないと

この世に存在する意味がない」という観念は

完全に優劣の世界に生きていて

優れていないと価値がないという考え。

 

これも「本当にそうかなぁ?」と考えてみます。

 

優劣ってどうやってつけるの?

 

わかりやすいものだけじゃなく

世の中には、目に見えない価値あるものもあり

また、一見劣っているように見えるけれども

それによって、実はみんなが助かっている

ということもあり

そこに線を引くことはできず

曖昧なものです。

 

この人は優れている、この人は劣っている

とはっきり分けられるものではなくて

誰の中にも優れている部分と

劣っている部分があるのだと思います。

 

さらに言うと

優れている中にも劣っている部分があり

劣っている中にも優れている部分があり

それは優劣という言葉はそぐわなくて

その人はそうなのだという「個性」

なのではないかと思うのです。

 

つまり、優劣というものがあるのではなく

それぞれ違う「個性」があるのが

人間なのです。

 

成果主義だとピンとこないかもしれませんが

そういうものを手放して

世の中をフラットに見れば

優劣とは曖昧なものなのだとわかります。

 

それには、見えない価値あるものを見つけて

感じる感性、一見良くないことの中に

素晴らしいギフトを発見する感性が

必要になるでしょう。

 

見えるものだけ

わかりやすいものだけしか信じられないと

「成果をあげる」「良い成績をとる」

「お金を稼ぐ」「人の役に立つ」など以外の

価値あるものをすくいあげられない

かもしれません。

 

 

そんなふうに考え、私が信じていた

「優れていないと価値がない」という考えは

偏狭な思い込みであることに気づきました。

 

 

 

 

 

 

「パッとしない」という呪いの言葉で

長い間眠り続けた私は

こうして目を覚ましたのでした。

 

パッとしなくても

私は、今の生活が気に入っているし

自分のことも「おもしろい人だな」と

憎めないキャラで好きです。

 

私は、パッとしなくても

このままでも良かったのです。

 

 

 

私は、私のままでいて

そのままで良かったのです。

 

 

 

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