心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

自分には価値がないという思い

 

 

 

私はずっと自分には価値がないと思っていて

自分のことを誇りに思えませんでした。

 

自分に自信がないからこそ

自分の価値を人に証明しようと

躍起になっていました。

 

 

 

例えば、私は日本人なのですけど

そのことを証明しようとは思いません。

 

それは真実で、当たり前にそうであって

そのことについて考えもしません。

日本人だと信じるというより

ただ「そうである」という感じです。

 

人に日本人だと思ってもらおうとか

日本人のようにしようとか思いません。

 

 

でも、出生に何らかの事情があって

そのことにこだわっている人は

「自分は日本人である」と

証明しようとするかもしれません。

 

「日本人である」ということに

疑いやブレがあるからです。

 

 

 

だから、私が自分の価値を

人に証明しなければ落ち着かないのは

「私には価値がある」ということを

疑い、ブレがあるということ。

 

「私には価値がある」と

信じられないということ。

 

むしろ「私には価値がない」と

信じているということなのです。

 

 

本当に自分の価値を信じていれば

人から認められることを必要としません。

人の評価、人の目を気にしません。

 

本当は価値がないから

人から「価値がある」と見られたいのです。

 

 

私には「自分には価値がない」という信念が

深く深く根付いていました。

 

 

 

 

 

前、テレビで見たのですが

子どもの頃、性的虐待を受けた人が

自分のことをドブのようだと思った

と言いました。

 

人間の排泄物を処理する下水のドブ。

 

 

人は、他者によって自分を認識します。

世界に自分ひとりでは

自分を認識することができません。

 

心が育っていない子どもの頃に

ドブのように扱われたら

自分のことをドブだと思います。

 

心が育って

自分が確立された大人だったら

怒るところです。

 

 

 

 

 

私は、物心つく前からずっと

どんな風に扱われてきたのでしょうか?

 

 

自分の気持ちや個性を無視され

踏みにじられてきたのです。

 

自分の気持ちや○○が好きなどの個性は

私が私たる所以、いわゆる私のコアです。

 

私という存在そのものが無視され

粗末にされ、ないものとして

扱われてきたのです。

 

私の気持ちは大切じゃない。

私は尊重するに値しない存在。

人形のようにしていればいい。

 

そして、イライラした時は

その怒りを吐き出して

言葉でボコボコに殴っていい。

 

不快な感情を吐き出し処理する

サンドバッグのような存在。

 

誰かがイライラしたら

私を殴ってスッキリする。

そういう道具。

 

 

 

 

さて、私は、自分のことを

どういう存在だと認識したでしょうか?

 

 

「私の気持ち、私の個性

私という人間そのものは

尊重するに値しない。

 

粗末に扱っていい。

イライラしたら殴っていい。

他者の快のために利用していい。

 

私に大切にされる価値などない。」

 

 

私は、そう認識したのです。

 

 

 

 

子どもの頃、性的虐待を受けて

大人からドブのように扱われた人が

自分をドブだと認識したように

 

私は子どもの頃、粗末に扱われたから

自分を粗末な存在だと思ったのです。

 

 

 

 

それは、本当なのでしょうか?

真実なのでしょうか?

 

 

 

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