心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

ドブのように感じたとしてもドブじゃない

 

 

 

昨日の続きの話です。

 

子どもの頃、性的虐待を受けた人は

自分のことをドブのようだと言いました。

 

人間の排泄物を処理する下水のドブ。

 

子どもの頃、ドブのように扱われた人は

自分のことをドブだと思っている。

これは本当なのでしょうか?

その人はドブなのでしょうか?

 

 

 

私は、客観的に、公平に

真実を見てみようと思いました。

 

 

その人には

ドブのように扱われたという経験がある。

記憶がある。

 

でも、その人の存在そのものは

ドブではない。

その人の存在は、命であり光だ。

 

命は、経歴や経験、成果、成績

周りの評価、自己認識などによって

揺るいだりしない絶対的な価値がある。

 

命の価値を落とすことなど

誰にも、どんな方法でも

できないのだ。

 

その人はドブのように扱われたという

経験をしたけれども

その人の命の光を汚すことなどできない。

 

命の価値を落とすことなどできない。

 

その人はドブじゃない。

ドブのように感じたとしても

ドブではないのだ。

 

 

 

 

ここまで考えて

「では、私はどうだろうか?

粗末に扱われたから粗末な存在なのか?」

と振り返ってみると

私にも同じことが言えるのです。

 

 

私も、同じように

粗末に扱われたという経験をしました。

 

それらの経験は、ただの経験であり

記憶です。

私の価値に触れることなどできません。

 

私の経験、記憶、自己認識は

私の価値とは別の次元にあります。

 

私の価値は、昔から変わらず

命であり、光であり、輝き続けています。

どんな経験も認識も

私の価値に触れることはできないのです。

 

 

 

だとしたら、「私には価値がない」という

思い込みを握りしめている必要は

もうなくなりました。

 

それは、間違いだったのだから

もういらないのです。

 

 

そのことに気づいた私は

「自分には価値がない」という

しつこい思い込みを手放しました。

 

そして、自分の尊厳を取り戻しました。

私は、価値ある自分、命である自分

光である自分を生きようと思いました。

 

 

 

そう思うと、なんだか

とっても嬉しくなりました。

 

私も、家族も、友達も、知り合いも

みんな光です。

 

みんな自由です。

 

みんな、死ぬまでの時間を

心の望むままに楽しく過ごしていればいい。

ここに生きているというだけで

もう光の存在なのです。

 

心のままに

自分を生きて

死んでいけばいい。

 

 

 

私も、みんなも、命です。

私も、みんなも、光です。

 

 

 

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