心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

好きなものを使うと気分いい

 

 

 

最近、かわいいものをいくつか買いました。

 

 

 

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マグカップです。

どれもお気に入りでかわいくて

見てるだけでニヤニヤします。

 

 

 

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このマグカップ

マリメッコのティイリスキヴィ。

最近、北欧にハマっているので

マリメッコは憧れです。

 

このブラウンとライトブルーの色合いが

めちゃくちゃかわいい!と思って買いました。

タイルのようなデザインも好き。

(モザイクタイル 大好物です)

 

 

 

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こちらもマリメッコ

定番人気のウニッコです。

ブルーグレーホワイトの

淡いお色がかわいらしい♡

大好きです。

 

 

 

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こちらはウェッジウッド(イギリス)の

ワイルドストロベリー

やっぱり北欧のものとは

デザインの雰囲気が違いますね。

このワイルドストロベリー柄は

繊細で本当にかわいらしいんです。

 

カップの持ち手部分や器の厚さなど絶妙で

すごく持ちやすく飲みやすいです。

とっても優雅な気分になります。

 

 

 

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イッタラキャンドルホルダー

買っちゃいました。

チューリップです。

 

最近よくキャンドルを灯すのですが

こんなかわいいキャンドルホルダーだと

本当にお部屋が素敵になります。

 

 

 

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厚めのブルーのガラスが

ぽってりとしていてかわいくて

見ているだけで胸がキュンとなります。

 

1980年代にフィンランドで作られた

ヴィンテージです。

40年経っているとは思えない輝き♡

 

 

 

 

 

私は、もともと

物をたくさん持つのが苦手でした。

 

自分の周りにある物ひとつひとつ

それぞれにエネルギーを取られて

消耗してしまうのです。

 

だから、物がごちゃごちゃある部屋にいると

すごく疲れてグッタリしていました。

 

そんな感じなので

物は少ない方がいいと思っていて

必要がない物は買わない、手放す、と

徹底していました。

 

 

 

物にそれほど

興味がなかったというのもあります。

 

だから、今ある物を使う、間に合わせる

という感じで、それを自分が好きかどうか

なんて考えていませんでした。

 

特に食器は、自分で買うまでもなく

双方の実家からたくさん貰えるし

引き出物やプレゼントなど

人から貰うことも多かったので

何も考えず、ある物を使っていました。

 

 

 

でも、そんなあり方が最近少し変わりました。

 

本当に好きなものを

自分の身の回りに置きたい、使いたい

と思うようになったのです。

 

あんなに物が増えることを嫌がっていたのに

物を買うようになりました。

必要がないのに。

もうあるのに。

 

 

 

そんなふうに物を増やして

どんな気分だろうか?というと

これがとてもいい気分なのです。

 

 

 

自分が「かわいい!!」と思っている

マグカップでお茶を飲む時

そのマグカップがテーブルに

置いてあるのを見る時

洗い終わって置いてあるのを見る時

食器棚にしまわれているのを見る時

そのたびに「ああ、かわいい♡」と

胸がキュンキュンして上がるのです。

 

人から貰ったマグカップでお茶を飲むのと

自分が好きで買ったマグカップで飲むのと

気分がこんなに違うのかと驚きです。

 

また、かわいらしいキャンドルホルダー

ろうそくに火を灯し、その輝きを見ていると

なんて美しいんだろう!と

心が満ちてくるのがわかります。

 

 

 

自分の好きなもの、お気に入りというのは

こんなに私の気分を良くしてくれる

パワーがあるんだなとわかりました。

 

私が「好き!かわいい!」と思っているから

その対象の物も

私に愛情を返してくれているように感じます。

 

こんな物との関係の築き方もあるんだな

と思いました。

 

 

 

物は、少なければいいというわけではなく

かと言って、たくさん持っていればいい

というわけでもなく

どんな関係性を築いているかが

大切なのかなと思います。

 

 

 

今でもたくさんの物を持つのは苦手ですが

自分の周りは自分の大好きなもので

いっぱいにしたいです。

 

そのためには心が動いたものは

買うようにしています。

 

お金がもったいない、とか

もう持ってるじゃん、とか

セーブしようとする声は聞こえてきますが

「好き♡」という声を

一番大切にしたいです。

 

好きなものを使うだけで

こんなにいい気分になれるのなら

その恩恵の方が計り知れないですから。

 

 

 

自分の欲に忠実にいようと思います。笑

 

 

 

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より良い自分であろうとするのではなくありのままの自分であろうとする

 

 

 

乳がん検診を受けてしこりがあるとわかり

始めはとてもポジティブだった私。

 

それは本心で本当に気分が良かったのですが

弱いネガティブな自分の声も聞いて

両方の自分を認めてみると

始めのポジティブさは

常に良い人間であろうとする

縛りからの自分だったかなと思います。

 

 

 

 

私は、いついかなる時でも

「良い人間であること>ありのままの自分」

です。

 

私は、いつだって立派な人でありたい。

だめな自分、弱い自分

ネガティブな自分にはなりたくない。

人からも自分からもダメだと思われたくない。

 

今回のことで、まだ残っている

この強固な思いに気づきました。

 

「そうか…まだそんなふうに思っていたのか」

と半ば驚きながら、私は

心の底の底にこびりついているこの思いと

向き合ってみることにしました。

 

 

 

 

 

なぜ私は、いついかなる時も

良い人間、立派な人間で

いなければいけないのでしょうか?

 

そう自分に問うと、私は

「だって自由な私でいるとお母さんが

怒り出すから。お母さんが許さないから。」

と答えました。

 

「自由な私はダメな私。許されない私。

自由でありのままでいたら

私は居場所を失い生きていけなくなる。

良い人間でいなければ私は命を繋げない。

お母さんが許してくれる

良い人間でいなければ生きていけない。

 

私は、生きていくために

自分の安全を確保するために

良い人間でいなければならない。

お母さんが許さなければ

私は生きられない。

 

だから、私はより良い自分でいることを

強く、固く、心に刻んだ。」

 

とのことでした。

 

 

 

良い人間でなければ

受け入れてもらえない環境では

自分の本当の気持ちや弱さは

とても危険なものでした。

 

それを見せたら嫌われて迫害されるのです。

だから、それを見せるのは

とても恐ろしいことでした。

 

私は、本当の自分をひた隠して

良い人間を演じ続けました。

 

 

 

私は、良い人間になることを

自分で選びました。

そうしなければ生きられなかったので

そうしたのですが、それでも

私は、自分を殺し、自分を見捨てたのです。

 

魂が激しく怒っています。

 

「私に強要するんじゃない!

私を縛るんじゃない!

私の自由を奪うんじゃない!」

 

 

 

 

 

今はどうでしょうか?

私は、良い人間でいなければ

生きられないでしょうか?

 

そんなことはありません。

 

良いところもダメなところも弱いところもある

ありのままの自分で生きていても

大切な人には激怒されません。

 

ありのままの私を嫌う人は

離れていくでしょうが、逆に言えば

残った人は私のありのままを

受け入れてくれた人ということです。

 

大切な人には嫌われないし

居場所も失いません。

だから、ありのままの自分で生きても

大丈夫なのです。

 

 

 

 

 

では、私はこれからも

良い人間であろうとする?

その縛りを続ける?

 

答えはNOです。

 

私は、自分が

良い人間であろうとすることを手放します。

そして、私はありのままの自分を受け入れ

ありのままの自由な自分を許します。

 

 

 

*  〜  *  〜  *

 

 

 

世間では、自分を厳しく律して

正しく生きている人が評価され

良い人、立派な人と言われます。

 

だから、私もそうあるべきと思って

生きてきました。

 

でも、その生き方をしていると

どんなに頑張っても幸せにはなれませんでした。

 

それは、頑張る方向を間違えていたからです。

 

 

 

「本来、魂は自由で

こうしなければならない、こうあるべき

という枠もない。

人の評価や人の価値観からも自由。

何も制限のない自由な

本来の自分であることを自分に許す時

魂は本来の力を取り戻し

自分は豊かに幸せになれる。」

 

 

 

正しく良い人であろうと頑張るのではなく

人の評価を気にせず

自分を縛る制限を手放し

自由なありのままの自分であろうと頑張るのが

正しい方向だったのです。

 

私は、今まで逆をやってきました。

 

人からの攻撃が怖くて

ありのままの自分でなんていられませんでした。

 

でも、それも仕方なかったと思います。

母の攻撃の前では

ありのままでいるなんて無理だったのです。

 

 

 

 

だから、今から変えます。

今から、良い人間であろうと

自分を制限しない。

 

私は、どこまでも自由です。

自由でいていい存在です。

 

自分の自由よりも大切なことなんて

ないのかもしれません。

 

 

 

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どうせ頑張っても幸せにはなれない

 

 

 

先月、胸にしこりがあることがわかって

細胞を取って検査したのですが、先週

その検査結果がわかる日がやってきました。

 

結果を待つ二週間の間

私は不思議なくらい落ち着いて

幸せな気持ちで過ごすことができました。

 

たまに「私はガンかもしれない」と

思い出して怖くなることもあったけれど

そういう時は「なってから考えよう。

なってから怖がろう。」と意識を

そこにフォーカスし続けないようにしました。

 

ほとんどは忘れて過ごし

むしろ、いつもより

この世界を贈られていることをありがたく思い

猫と一緒にいられることを嬉しく思い

幸せを実感しながら過ごした二週間でした。

 

 

 

今までだって

どんなに絶望するような体験をしても

そのおかげで大切なことに気づいてきました。

 

そして、今の私があります。

 

そのくらいインパクトのあることが

起こらなければ、意識の変革なんて

起きなかったでしょうから

それで良かったのです。

 

無条件に愛されている存在の私が

私にとって愛のない

ただ苦しいだけのことなんて

体験するはずがありません。

 

だから、もし悪性だったとしても

私に起こったということは

それが最善なのです。

 

この自分に起こることへの信頼感が

この二週間の落ち着きであり

幸せなのかもしれないと思いました。

 

 

 

 

 

そして、検査結果。

悪性の所見は見られるが判別不可能。

再検査。

 

細胞だけでは判別がつかず

今度は大学病院に行くことになり

組織を取っての再検査となりました。

 

 

 

これが、思ったよりも堪えました。

 

どちらにしてもはっきり結果が出れば

前に進むことができます。

でも、どっちつかずの宙ぶらりんの状態

何もできずにただ「待つ」というのは

自分で思っているよりも

ストレスだったようです。

 

この状況がまだあと何週間も続くのかと思うと

すごく疲れてしまって

一気に気力がなくなってしまいました。

 

それまでの前向きな自分はいなくなり

私は前向きなことを言うことも考えることも

優等生のように振る舞うことも

できなくなりました。

 

 

 

私は、自分の中に湧き上がってくる

負の感情を全部聞いてあげることにしました。

 

 

 

*  〜  *  〜  *

 

どうして私ばっかりこんな目に遭うんだ、

普通に長生きしてる人はたくさんいるのに

どうして私ばっかりこんなに苦しまなきゃ

いけないんだ、という怒り。

 

今まで厳しい環境の中

自分と向き合って頑張って生きてきて

そのせいで体を壊して結局幸せにはなれない、

ストレスの少ない環境で育って

幸せに生きてきた人はそのまま健康で

頑張って生きてきた人は体に負担がかかって

病気になるなんて不公平だ、

というやるせなさ。

 

どうせどんなに頑張っても

幸せになんかなれない、という絶望。

 

もうこれ以上苦しみたくない

もう頑張れない、もうこの人生嫌だ

この人生辞めたい、早く終わりにしたい

という無気力。

 

前なんて向けない。

ポジティブになんかなれない。

もう本当にどうでもいい。

もうこれ以上、苦しむことも

頑張ることもしたくない。

何もしたくない。

 

私は底辺でうだうだと

やさぐれることを自分に許す。

文句を言うことを許す。

怒ることを許す。

愚痴を言うことを許す。

弱音を吐くことを許す。

嘆くことを許す。

 

体に悪いものだって食べる。

波動なんかどうでもいい。

成長とか最善とかどうでもいい。

頑張ったってどうせ私は幸せにはなれない。

だから私は好きにする。自由にする。

もう何もかもがどうでもいい。

もう頑張らない。本当に!

 

*  〜  *  〜  *

 

 

 

 

この間までの幸せを感じていた

ポジティブな私は

決して嘘をついていたわけではなく

その振りをしていたわけでもなく

本当に正真正銘そう感じていました。

 

それも本当の私なのです。

 

でも、今ネガティブな感情を

しっかりと感じてみると

最初にしこりが見つかった時、本当は

私は嘆きたかったのかもしれないと思いました。

 

本当はいっぱい文句を言って

泣きたかったのかもしれない。

怖い怖いと恐怖を

しっかり感じたかったのかもしれない。

 

でも、優等生の私が心に蓋をして

小さな子どもの私が泣いて怯えているのに

そこに向き合わなかったのだと思いました。

 

私が私に弱音を吐くことを

許さなかったのだと思いました。

 

 

 

 

検査結果が出なかったことによって

私は初めて弱い自分の本心を

知ることができたのです。

 

私は、私の弱い心、後向きな心を

認めて受け入れてあげました。

怒り、嘆き、悲しみを聞いてあげて

抱きしめてあげました。

 

高い視点を持つ前向きな自分と

弱い心を持つ後向きな自分。

 

両方、自分。

全部ひっくるめて本当の自分。

 

どんな自分も置いてけぼりにはしない。

 

 

 

私は、多面性のある自分の

すべての面を受け入れて

愛していきたいです。

 

 

 

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自分に対する愛が足りない

 

 

 

先日、左胸に

しこりがあることがわかりました。

 

 

 

私は、胸にしこりができるということは

それが悪性であろうと良性であろうと

「自分に対する愛が足りない」

ということだと認識しました。

 

心臓の疾患もそうなのだそうですが

この辺りにはハートチャクラがあり

そこに不具合があるということで

それを体が表現しているのです。

(私のしこりは心臓の真上にあります)

 

 

 

 

 

前にも書きましたが、乳がんになる人は

自分のことは後回しにして

人のことばかりやって

人のために生きているそうです。

 

私のこれまでの人生もまさにそうでした。

 

 

 

子どもの頃は母が機嫌良くなるように

母の喜びのために生きていて

結婚してからは夫や義母、義姉の顔色を伺い

お付き合いしてきて

子どもが生まれてからは

子どもが最優先の生活でした。

 

ずっと自分のことは後回しにして

人のことばかりやって

自分を蔑ろにしてきました。

 

疲れているなと思っても

お世話が必要な人がいれば、自分は休めず

動くしかないと思っていました。

 

 

 

そうして自分を後回しにして

私は自分には愛をあげなかったのです。

ずっと、何十年も

愛をあげなかったのです。

 

 

 

去年、仕事と家族のお世話で無理をして

とうとう入院するほど体を壊したので

その時、「人のお世話を

自分の役割だと思うことを手放そう」

と決めて、自分を労わることを

優先するようにしたのですが

それではもう、この体は長年の負担に

耐えられなくなっていたのでしょう。

 

私は、私自身の体に謝りました。

 

「今まで本当にごめんね。

後回しにしてごめんね。

粗末に扱ってごめんね。

蔑ろにしてごめんね。

これからは私を大切にして愛するよ。

私は私を愛しているよ。」と。

 

 

 

 

 

でも同時に、私は、自分を後回しにして

粗末にした自分のことは

責める気にはなりません。

 

仕方なかったのです。

 

自分の居場所がなく安心できない環境で

「どうやって生きていけばいいんだろう」と

途方にくれている中で

精一杯、自分を守って生きてきたのです。

 

自分を後回しにして

人を優先するというやり方は

最善ではなかったかもしれませんが

その時の自分にできる精一杯の

生き残りのための策でした。

 

 

 

 

だから私は、自分を粗末に扱った自分を

責められません。

 

私は、そんなふうにして

必死に生きてきた自分を

「よく頑張って

今まで生き延びてきてくれたね。

本当によく頑張ったね。」と

労ってあげたいです。

 

そして、抱きしめてあげたいです。

 

「いいんだよ。いいんだよ。頑張ったね。」

と言ってあげたいです。

 

私は、こうなった自分を許し

抱きしめます。

 

 

 

 

 

私は、これからは

粗末に扱われてきた自分も

自分を痛めつけてきた自分も

すべてを丸ごとそのまま愛していきます。

 

私にできることはそれだけなのです。

 

 

 

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今日生きていられるということ

 

 

 

昨日、乳がん検診があったので

行ってきました。

 

検査の結果、左胸に

1cmのしこりがあることがわかりました。

 

 

 

まさか!という思いと

これからどうなるんだろうという

不安と恐怖が湧き上がりました。

 

死への恐怖、治療への恐怖

死へ至るまでの苦痛の恐怖

などを感じました。

 

 

 

 

 

『え?私、死ぬの?

このまま死んでいいの?

私は何しに生まれてきたんだっけ?

やりたいことはやった?

やりたいこと、やろうとしてること

全然やってない!半分もやってない!

 

発達障害のある子どもたちの支援は?

病気の猫のお世話は?

 

私はまだ死ねない。

死ぬわけにはいかない。

 

 

 

なぜこんなことが起こったんだろう?

 

乳がん

「自己犠牲のうえに人に与えすぎる人」

がなる病気。

 

ものすごく思い当たる。

特に、去年、一昨年あたりは

仕事と家族のフォローで時間を取られ

自分が休みたくてもなかなか休めず

体を壊して入院までしてしまったのだから。

 

ずっと自分を後回しにしてきた。

自分はいつも一番最後だった。

いつも人の世話ばかり焼いていた。

 

でも入院した時にそのことを反省して

それからは自分ファーストに

してきたつもりだったのだけど…

 

私はまだ自分を蔑ろにしているのかな?

自分では気づけないけど、まだ

そのように行動、選択をしているのかな?

 

検査結果を聞いてすぐに

子どもと猫の心配をするとか

そういうところかな?』

 

などなど、ぐるぐると思いは巡ります。

半ばパニックで混乱の極みでした。

 

 

 

そして、一通り不安、恐怖、焦り、悲しみ

などを味わって手放していくと

出てきた強い思いは

「もう本当に本気で生きる!

本気で自分を大切にする!

人の目、人の言うこと、人の思うことなんて

ほんっっっっっとにどうでもいい!

ほんっっっっっとに関係ない!

私は、私を心地よくして、喜ばすことに

本気で取り組む!」でした。

 

 

 

 

 

本当にパンッとモードが切り替わりました。

 

まだ悪性か良性がわからないので、昨日

細胞を取って検査に回してもらいました。

 

まだどうなるかわかりません。

でも、やることは同じなのです。

 

自分に残された時間を

目を覚まして精一杯生きるということ。

 

 

 

 

 

私にこういうことが起こった。

それはもう仕方ないことです。

泣き喚いても、抵抗しても、認めなくても

起こったことはそのままそう起こっている。

 

だから、受け入れるしかないのです。

 

「じゃあどう生きる?」

と突きつけられているのだと思いました。

 

 

 

 

 

私があと何年生きられるのか

それはわかりませんが

残っている時間をどれだけ気分良く過ごせるか

どれだけ自分を喜ばして幸せにできるか

それが大切です。

 

そして、これは

病気だろうが、健康だろうが

残されている時間が長かろうが、短かろうが

今生きている人すべてに

言えることなのだと思います。

 

もし良性だったとしても

喉元過ぎれば〜にならずに

今のこの思いを忘れずにいたいと思いました。

 

 

 

 

昨日、そんなことがあったので

今朝起きた時

「今日もこうして生きていることは

なんてありがたく、素晴らしいことだろうか」

と真新しい気持ちになりました。

 

陽の光を浴びて歩いていると

「今日、生きていられることは

なんて嬉しいことだろうか」

と喜びが湧いてきました。

 

命があって、生きていられることが

当たり前ではなくて

なんて貴重だろう、なんて嬉しいことだろう

なんて素晴らしいことなんだろう

と、その素晴らしさを実感できたので

この経験もやっぱり

ギフトなのだなぁと思います。

 

世界が美しく、キラキラと

輝いて見えるのですから。

 

 

 

 

そんな今日は

自分に花束を買って帰りました。

 

 

 

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母への憎しみを手放す

 

 

 

私は、子どもの頃から

私に厳しく優しくない母親が大嫌いでした。

 

母が私を傷つけたから

私の人生はとても生きづらくなったのだと

ずっと恨んでいました。

 

この怒り、恨みは根深く

手放すことなど到底できませんでした。

 

 

 

 

 

3年ほど前

その母親の卒寿だったのですが

私は卒寿祝いの品を送りました。

 

なんやかんやで

お祝いを送るタイミングを逃し続け

9ヶ月も遅れてのお祝いでした。

 

そんなにタイミングを逃し続けたのに

不思議と、私にはお祝いを贈らないという

選択はありませんでした。

 

「別に、お母さんなんか

どうでもいいと思っているのに

どうしてだろう?不思議だな」と思いました。

 

 

 

 

その疑問を掘っていくと

私にはもう母に優しくしたい気持ちが

あることがわかりました。

 

自分が自分を許して、受け入れて

癒されてきて、その今の自分が

母を憎み続けるのは違和感がありすぎて

できなくなってきていたのでした。

 

 

 

けれど、そんな私にエゴがすごい抵抗して

「お母さんを憎み続けろ!絶対に許すな!」

と言っていました。

 

エゴは、ずっとこのまま

母を憎み続けることを望んでいました。

 

何十年も憎んできた人を許すとか

愛するとか、優しくするとかできないと

抵抗していました。

 

エゴは「変わりたくない!

お母さんに執着していたい!」

と言っていました。

 

そうか、「許すもんか!」は

エゴだったんだな、と思いました。

 

 

 

 

 

本当の私は(癒された本来の私)

もう母親を気遣っていたのです。

 

そのことに気づいた私は

「だったらもうお母さんへの憎しみを

手放そう。もう必要ない。」と思いました。

 

そしてエゴに

「もうお母さんを憎まなくても大丈夫だよ。

私は自分のことを愛して、幸せだから

もう憎まなくてもいいんだよ。」

と伝えました。

 

私は、母への憎しみを手放し

母への執着を手放し

母とのロープを完全に切りました。

 

 

 

 

 

そして、私は自由になりました。

 

自分を自由にするのは

いつだって自分自身です。

 

ギュッと握っているその手を開き

「放す」と自分が決めるだけなのです。

 

 

 

 

 

母親に対しては

優しくしたい時にはそうして

そうでない時はしない、というふうに

自分に無理なく自然体でいようと思います。

 

無理に高尚な人になろうとせず

かと言って意地も張らず

自分のしたいように

自分が心地いいと感じるように。

 

 

 

 

母の卒寿祝いには

シルクのパジャマを贈りました。

 

 

 

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魔法のような豊かさ

 

 

 

先日、いつものように

ネットで買い物をしようとしたら

何かのトラブルで買えませんでした。

 

一度キャンセルして、数日経ってから

再度購入しようとしたのですが

また買えませんでした。

 

 

 

 

私はとてもざわざわしました。

 

なぜなら、私は食品も猫用品も日用品も

Amazon楽天市場に依存していたからです。

 

「え?ネットで買い物できなくなったら

どうしよう?あれもこれも買えなくなる。

すごく困る!どうやって生きていく!?」

と半ばパニックでした。

 

 

 

 

 

実は私は今年の8月にまたキネシオロジー

自分に合うものを見ていただいたのですが

自分の内面も肉体も変化しているからか

それまで大丈夫だったものが

ダメになっているというものがたくさんあり

さらに厳選されたものしか

受け付けなくなっていました。

 

それまで大丈夫だったナッツ類もダメ

玄米もダメ、魚も白身魚以外はダメ

野菜や果物はオーガニックじゃないとダメ

というふうに。

 

 

 

さらにショックだったのは

それまで肌につけていたものすべて

化粧品、シャンプー、リップクリーム

石鹸、洗剤、歯磨き粉、などすべて

ダメだったことです。

 

なので、それらをすべて

合うものに変えるという一大仕事を

この夏は必死にやっていました。

 

この繊細すぎる私の体がOKというものは

近所のお店で買えるような品物ではなくて

ネットを駆使して探し出して

ようやく落ち着いたところでした。

 

なので、こんな状態の私が

Amazon使えません、楽天使えません

と言われたら

「私はどうやって生きていけばいいの!?」

とオロオロしてしまうのです。

 

 

 

 

 

そうして、一通りオロオロしてから

「今、私は恐怖を感じている」と自覚しました。

 

そして、カードが使えない恐怖

Amazonで買い物できない恐怖

これらを手放すことにしました。

 

(手放すやり方はいろいろありますが

今回は「ありがとう、愛してます」と

ひたすら言うだけのホオポノポノで)

 

 

 

恐怖を手放し、信頼を取り戻すと

「私が必要とするものは必ず与えられる。

私はあるという豊かな世界に生きている。」

と思え、本来の位置に戻って来られました。

 

そして、Amazonで買い物をして

欲しいものを手に入れていた私は

まさにこの豊かさの中にいたのだと

気づきました。

 

私は今まで、私が注文をして、お金を払って

届けてもらうのだから

手に入るのは当たり前だと思っていました。

 

でも違う。それは当たり前ではないのです。

 

 

 

 

 

私の目の前にスマホがあって

ネットがあって

Amazonという会社、システムがあって

それを使えて、初めて

自分の必要なものを手にできます。

 

そのシステムがあるから

いくらお金を持っていても

到底手にできないような品物を

私は手に入れることができていたのです。

 

それは、外国のオーガニックの化粧品だったり

外国のオーガニックの洗剤だったり

小さな食品会社の調味料だったり。

 

昔も「地方発送承ります」というお店はあって

電話やFAXで注文すると送ってくれる

ということはありましたが

「リップクリームひとつ、洋風だしひとつ」

などのように注文することはできません。

 

でも今は

本来私が手に入れられないようなもの

近所には売っていないようなものが

普通に、注文通りに手に入れられるのです。

 

 

 

これは、もはや魔法ではないでしょうか!

 

「必要なものは与えられる」

という世界そのものでは?

 

もう必要なものは与えられていたのです。

豊かな世界は今ここに広がっていたのです。

 

 

 

Amazonとは

ネットショッピングとは

なんと豊かなシステムでしょうか。

 

この豊かさを日頃から享受できていたことに

私は、今やっと気づくことができました。

 

私は、魔法のような豊かさの中にいます。

私は、必要なものは

必ず手に入れることができます。

 

困ることなど起こらない。

私はもう豊かさの中にいるのだから。

 

 

 

 

 

と、ここまで気づいたら

次の日、トラブルは解消して

今まで通り普通に

Amazonで買い物ができるようになりました。

 

おもしろいですね。

 

 

 

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(手前から時計回りに、エビ塩パン

ポテトグラタンパン、コーヒーロール)