心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

大人のひとり遠足

 

 

 

今日は前々から行ってみたいと思っていた

京都の植物園に行ってきました。

もちろんひとりです。

 

 

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やっと最近のんびりでき始めて

行こうという気分になれたので

この気持ちを逃さずに

行動してみました。

 

 

 

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植物園は他のお花も咲いていましたが

バラが見頃だったようです。

 

 

 

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バラを見たり、写真撮ったりしてる間

ずっと「かわいい…かわいい…」と

ひとりでブツブツ言ってました。

 

本当に愛らしかったのです。

 

バラ園はバラがたくさん咲いているので

さすがに人が多く

賑やかで華やかな雰囲気でした。

 

 

 

人ごみが苦手な私が

もっぱら時間を過ごしたのは

森の中です。

 

 

 

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水辺が特に気持ちいい♡

 

 

 

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亀がいっぱいいました!

 

しばらくジーッと見ていると

チャポンと池に入って泳いで

またこの元の場所に

「よっこらしょ」って感じで

よじ登ってくるのがおもしろかったです。

 

「陸に上がるのはこの場所」って

決まっているのでしょうか?

 

 

 

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新緑が爽やか♪

 

 

 

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今日はお天気がすごく良かったのですが

森の中は涼しくて快適でした。

 

土の匂い、枯葉の匂い、草の匂い

木の匂いがとっても落ち着く良い香りです。

 

風の音、葉が擦れるサラサラした音

カエルの鳴き声、トンビの声、など

いろんな音もしました。

 

自然は意外とおしゃべりだなぁと思いました。

 

 

 

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この景色を見ながらお弁当タイムです。

私のお弁当はアーモンドミルクと

バナナと甘栗ですけど。笑

 

 

 

昨日の夜は「明日、植物園に行こう」

と思ったら、ドキドキワクワクして

遠足の前みたいでした。

 

大人になっても遠足の前は

ドキドキワクワクするのですね。

 

この感じ、悪くないです。

 

 

 

また、ふと

どこかに行きたいなぁと思ったら

身軽に行きたいと思います。

 

 

 

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できること、できないこと

 

 

 

テレビで、いろんな背景のある人の

支援をする人のドキュメンタリーを

よく観ます。

 

さまざまな障害や犯罪歴のある方

ホームレスや頼る家族のない若者など

困っている人はそれぞれに

壮絶な困難さを抱えています。

 

 

 

そんな方々に手を差し伸べ

一生懸命に支援している人たちがいます。

 

支援される側の人たちも

相当な痛みを負っているので

苦しんでいて、それゆえに

支援者に向けて暴言を吐いたり

刃物を向けたり、裏切ることもよくあります。

 

それでも、支援する人は支援をやめず

どこまでも助けようとするのです。

 

 

 

 

 

そういう支援者を見ると

本当にすごいなぁと

頭が上がらない気持ちになります。

 

そして、「私には無理だな」と思うのです。

 

 

 

以前、人の話を聴き続けただけで

エネルギーをごっそり取られ

体調を崩してしまったことがあり

人にエネルギーをごっそり取られるような

しんどいことはできないなぁ、と。

 

この時は長期間コンスタントに

タダで長時間話を聴き続けて

疲れが蓄積されていったので

特にしんどく体調を崩してしまいました。

 

その時以来、私は人のために

できないこともあると自覚しています。

 

 

 

でも世の中には、しんどい人に

たくさんのエネルギーを与えられる人もいて

そんなタフな人を見ると

「私にはできない。

私は自分のことで精一杯だ。と

心がざわざわしていました。

 

私も支援の仕事をしているので(いたので?)

そんな自分に罪悪感のようなものを

感じていました。

 

 

 

 

 

でも、ふと思ったのです。

 

タフな人がそれをできるからといって

同じことを私もしなければいけないのだろうか?

 

タフな人がそれをできるのは、それが

タフな人たちのやるべきことだから

なのではないか?

 

私がそれをできないと思うのは

私がやらなくていいことだからなのでは?

 

私には、私のできることがある。

私のできることは、もしかしたら

タフな人たちにはできないのかもしれない。

 

だから、人と比べて

「自分はできない。自分はためだ。」と

思う必要などないのだと思いました。

 

 

 

 

 

私は、私のやり方で

私にできる方法で

世の中に貢献していけばいいのです。

 

(貢献しようとしなくてもいい。

自分のままであれば貢献してしまうから。)

 

私にできないことは

できる人にお任せすればいい。

 

そこに優劣はありません。

 

みんなそれぞれに

自分の個性を生きればいいのだと思いました。

 

 

 

 

 

誰にでも、できることとできないことが

あると思います。

 

そこで、できないことを

できるようになろうとすると

苦しくなります。

 

それは、自分のできないことが

できる人の活躍の場を奪うことにもなります。

 

だから、できないことはできないままにして

できる人にやってもらい

自分はできることをやる、というのが

世の中が丸く収まる在り方なのです。

 

 

 

できないことを「できない…」と

落ち込むことはよくあると思いますが

その落ち込みは無駄なのかも?

 

「自分にできることをやっていればいい」

とよく言われますが

本当にそうなのですね。

 

自分ができることをやって活躍していれば

丸く収まるようになっているのです。

 

 

 

世の中のみんなが、自分のままで

自分を表現していればいいのだと思います。

 

 

 

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軽やかな小さなお財布

 

 

 

今年3月末で仕事を辞めた時

(これからも月1回は行くので

正確には辞めていませんが)

友達が私にバッグを贈ってくれました。

 

同じ職場だったわけではなく

ただの友達なのですが

「お疲れ様でした」ということらしいです。

 

こんなことしてくれるなんて

本当にありがたいな、と思いました。

 

 

 

贈ってもらったバッグは

とても小さくて軽いものでした。

 

小さくて、私のお財布は

入りそうにありません。

 

私が今使っているのはクロコダイルの長財布で

中には、お札、小銭、お守り、免許証、保険証

クレジットカード、各種ポイントカード

などが入っていて

ちょっと小ぶりなバッグくらいの

大きさと重さがあります。

 

そのお財布はとても入りません。

私は「お財布が入らなかったら

このバッグはいつ使うの?」と思いました。

 

 

 

 

 

そう思っている時に

たまたま雑貨屋さんで目にしたのが

このお財布です。

 

 

 

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小さくて布製でファスナー

中は仕切りがあって

お札、小銭、カードを別に入れられます。

 

 

 

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反対側は透明になっていて

定期券など入れるのに便利そうです。

 

今はあまり現金を持ち歩かない人も増えたのか

小さなお財布がたくさん売っていました。

 

 

 

私は、このお財布を買うことにしました。

たんぽぽのような

素朴な黄色いお花がかわいいし

なにより小さくて軽くて

とても気に入ったからです。

 

これなら友達からもらったバッグで

お出かけができます。

 

 

 

私は今まで、お財布は

革製の長財布を使うのが当たり前でした。

 

「お財布はお金のおうち」と思って

お金が居心地良いように

立派なもの、あまり安価じゃないものを

と思っていました。

 

でも、今

これまで使っていた長財布を持ってみると

とても重く感じます。

 

この重いお財布いる…?

お財布は立派じゃなきゃだめ…?

 

 

 

私は、お財布は立派でなければいけないと

思い込んでいましたが

そうじゃなくてもいいのかもしれない

 

小さなバッグに小さなお財布で

軽やかに出かけるのもいいかもしれない

と思いました。

 

そう思ったら、心がふと軽くなり

新しいスタートの春を「軽やかに」と

メッセージをもらった気がしました。

 

 

 

小さくて軽いバッグには

たくさんのものは入れられません。

 

だから「そんなにたくさんのものを

持って行かなくていい。置いて行きなさい。」

と言われている気がします。

 

それは、お出かけの時だけではなく

日常の生活の中でも

自分の心の中でも、同じことです。

 

「いらないものは持たない。

重く感じるものは手放す。

今まで以上に思い切って手放していい。」

ということです。

 

 

 

友達から贈られた小さくて軽いバッグには

「自分の心にも、自分の人生にも

重い荷物、たくさんの荷物はいらない。

思いきってたくさん手放して

身軽になりなさい。

そして軽やかに行きなさい。」という

メッセージが込められていました。

 

 

 

 

 

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小さなお財布を買った雑貨屋さんで

かわいいミラーコンパクトも

買いました。

 

完全に衝動買いです。

かわいい〜♡とハートが喜んだので

買ってしまいました。笑

 

 

 

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ジャンクフードが食べたくなるのは

 

 

 

4月からは月1回仕事に行くだけで

それ以外は実質

専業主婦のように過ごしています。

 

3月まではしっかりシフトに入っていて

その時のことを今振り返ると

ものすごい疲れていたなぁと思います。

 

 

 

仕事して帰ってくると

疲れなのか、ストレスなのか

ジャンクフードが食べたくて食べたくて

仕方ありませんでした。

 

だから、仕事があった日は必ず

ジャンクフードを食べていました。

 

チョコレート、ドーナツ、ケーキなどスイーツ

ポテチ、カールなどスナック菓子

たこ焼きなどの粉もの、パスタ

唐揚げ、コロッケなどの揚げ物

パン屋さんの菓子パン、調理パン

などなど。

 

白砂糖、小麦粉、油がおいしくて

食べると本当に幸せを感じて

脳が喜んでいるのがわかりました。

 

脳にガツンとくる感じ

これによってストレスが解消されて

いくようでした。

 

 

 

でも白砂糖も小麦粉も油も

私の体には合わないものばかりなので

食べた後は体が重くなったり

気分が悪くなったりします。

 

それがわかっているのに

食べない方がいいと思っているのに

仕事の後は疲れとストレスで

ジャンクフードを食べることを

やめられなかったのです。

 

「こんなことを続けていたら

本当に自分のためにならない。

ジャンクフードを食べずにいられない環境を

なんとかしなくてはいけない。」

と思ったことも仕事を辞めるという決断の

理由のひとつでした。

 

 

 

 

 

そもそも、ジャンクフードを食べたくなるのは

自分の心も体も健やかさを失っている

という証です。

 

自分の心も体もバランスが悪い状態。

 

そして、一日が終わった時に疲れているのは

本当の自分ではない自分を生きているから

だそうです。

 

無理したり、我慢したり

緊張したりしているのです。

 

そんなこと言ったら、世の中の働いている人は

ほとんどそうではないか?

一日の終わりには疲れているものではないか?

と思うでしょうが、そうなのです。

 

世の中のほとんどの人が

自分を生きてないということです。

みんな無理や我慢をして生きているのです。

 

 

 

 

 

 

さて、仕事が月1回になってから

どうなったかといいますと、今のところ

ジャンクフードはほとんど口にしていません。

 

一回、会社の送別会に出席した時に

マシュマロを一個食べたくらいです。

 

焼肉屋さんだったので

私は鶏肉を注文させてもらって

(鶏肉は食べられます)

あとは野菜を食べていたのですが

最後に誰かが焼きマシュマロがおいしいからと

全員分注文したのでお付き合いで食べました。

 

でも、おいしいと思ったのは始めの3口までで

それからは白砂糖の甘さがしんどくて

体に入れたくないなぁと思ってしまいました。

 

 

 

 

仕事を月1回にしたら

ジャンクフードを食べなくても大丈夫で

「食べたい!」とも思わないのです。

 

体に入れたいと思わない

むしろ体に入れたくないという

思いが強いです。

 

ストレスがかからなければ

ジャンクフードは食べなくても

平気でいられます。

 

これが、本来の

健やかな状態なのだと思いました。

 

 

 

この健やかな状態を取り戻してみて

改めて、仕事日に必ずジャンクフードを

食べずにいられなかったのは

異常だったのだと思いました。

 

健やかじゃない状態。

波動も相当低い状態。

 

 

 

 

自由時間が少ないこと

体に無理をさせること

我慢すること

緊張すること、などなど。

 

自分が自分のままでいられないのは

不健康です。

 

自分が自分のままでいられたら

ジャンクフードは必要ありません。

 

 

私にはゆとりが必要。

自由が必要。

そうでないと

私は息ができなくなるようです。

 

 

 

 

 

私の場合、ジャンクフードでしたが

これがお酒でも買い物でも

ギャンブルでも同じです。

 

そういうものがないとダメ!というのは

心も体も健やかじゃないからなのです。

 

そして、一日が終わって「疲れたー!」

と思うのは、本当の自分ではない自分を

生きているからなのです。

 

 

 

まずはできる範囲で

無理や我慢をやめてみて

自分がどう変化するのか

観察してみるとおもしろいかもしれませんね。

 

 

 

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なんでこんな設定にしたのかな?

 

 

 

ぼんやりと考えごとをしている時

ふと思いました。

 

私は、子どもの頃、母から

愛とは逆のものをたくさんもらっていたな、と。

 

 

 

受容ではなく否定を

寛容ではなく不寛容を

自由ではなく束縛を

許すのではなく許さないことを

温かい眼差しではなく冷たい目を

優しい声かけではなく金切り声や怒鳴り声を。

 

こういうものを毎日受け取り続け

私の心には傷がついてしまいました。

 

そして、傷ついた心では

人生はとてつもなく生きづらいのでした。

 

 

 

 

 

ところで、私は生まれる前、魂の時

自分でこの母親を選んでいます。

 

この設定で、こういう経験がしたいと

自分で選んでいるのです。

 

この母親を自ら選んだということは

愛じゃないものを受け取ることも

当然承知していて、敢えてそれを経験したいと

思ったということです。

 

 

 

私は、この経験から

何を得たいと思ったのでしょうか?

何を望んでその設定にしたのでしょうか?

 

こんなに傷ついて

その後の人生も生きづらくなってしまうのに

それでも経験したかったのは

何のためでしょうか?

 

必ず自分にメリットがあるはずです。

必ず大きな利益や目的があるはずです。

 

そうでなければ、わざわざ自分で

こんな経験を選ばないと思いますから。

 

 

 

 

 

私は何が欲しかった?

私は何を学びたかった?

 

言い換えると、魂は何を学びたかった?

 

 

 

そう問いかけていると

ふと、自分の本棚が頭に浮かびました。

 

私の本棚には、自分が

苦しみから逃れるための本がぎっしりです。

 

不安のメカニズム、HSP、家族の心理

自信をつける方法、幸せになる方法

カウンセリング、家族相談士、発達障害

などなど。

 

私は、自分が傷ついて苦しかったから

自分に何が起こったのか

どうすれば幸せになれるのか

たくさん勉強しました。

 

そして、傷ついた経験があるから

傷ついた人に寄り添えるし

繊細な感覚があるから

繊細な人の大変さやしんどさもわかります。

 

 

 

否定される辛さがわかるから

受け入れられた時の安心した気持ちがわかり

相手のことも受け入れようと思います。

 

自由を奪われる息苦しさがわかるから

自由な時の伸びやかさやワクワク感がわかり

人にも自由でいてほしいと思います。

 

許されないことの悲しさがわかるから

許された時の安堵感がわかり

人のことも許したいと思います。

 

優しくされない悲しさがわかるから

優しくされた時の温かさがわかり

人にも優しくしたいと思います。

 

 

 

もし、私が心身ともに健やかで

元気いっぱいの人だったら

こんなふうに思える自分には

なっていかなかったかもしれません。

 

私は、母から愛とは逆のものをもらい

それを体験したことによって

自分は母からもらったものの逆を

つまり愛を与えられるようになりました。

 

 

 

きっと私は、愛を学びたかったのです。

それまで知っている愛よりも

もっと深い愛を知りたかったのです。

 

魂の私は、ちゃんと愛せる人に

なりたかったのだと思います。

 

自分や、相手や、動物や、植物や

自然や、地球や、目の前のもの

自分の周りのものすべてを

愛したいのです。

 

愛じゃないものを体験して

苦痛を味わい、痛い思いをして

より深く愛というものを学んだのです。

 

 

 

 

 

そんな私の学びには

私に愛じゃないものを体験させるという

嫌われ役が必要不可欠でした。

 

嫌われ役がいないと

私の学びは成り立ちません。

 

誰も嫌われ役なんてやりたくない

そんな中、その役を買って出てくれたのが

私の母でした。

 

母は、魂レベルでは

私のことを愛していたのでした。

 

そのことに気づき

私は母に感謝しました。

そして、感謝の涙が流れました。

 

「お母さん、私の成長のために

嫌われ役をやってくれてありがとう。」

 

それは、とても幸せな気づきでした。

 

 

 

 

 

そんなことを

うちの猫を抱っこしながら考えていました。

 

 

 

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(うちの猫は愛の塊です)

 

認められたいという飢餓感

 

 

 

春のこの季節になると

友達や知人のお子さんが

どこの学校に入ったとか

どこに就職したとかいう話が

耳に入ってきます。

 

そういう話題に登るのは大抵優秀な子で

良い大学や一流企業などに入ったという話です。

 

私は、そういう話を聞くと

いいなぁ、羨ましいなぁと思います。

 

自分の子どもが優秀なのは

どんな気持ちなんだろうか?

さぞ誇らしいのだろう。

良い気分だろう。安心なのだろう。

 

そう思い、ちょっと心がチクンとします。

 

 

 

 

私の子どもたちには発達障害があって

そういうこともあってか

良い学校にも一流企業にも縁がありません。

 

それどころか、「普通」になりたいと

本人がどんなにがんばってもそれも難しく

せめてこの社会で生きていけるようにと

子どもの幸せを願って、願って

それでもわからない、という人生です。

 

優秀な子を持つ親は

私と全く違う世界を生きていて

きっと誇らしいのだろう、安心なのだろう

と想像して、それを手に入れられない自分が

惨めで悲しくなってしまうのです。

 

 

 

こんなふうに思ってしまうことに

子どもたちには申し訳ないと罪悪感があり

自分の子どもを「劣っている」という目で

見ているということだなと

またそこでも自己嫌悪に陥ります。

 

「優秀な子を持つ親が羨ましい」なんて

思わないでいたいですし

「私の子は素晴らしい子だ」と

胸を張っていたいです。

 

なので、私の心の「チクン」を

見つめてみることにしました。

 

 

 

 

 

その「チクン」の正体は

羨ましいという思いの下にある

圧倒的な悲しみでした。

 

優秀な子を育てて私も認められたい。

でもそうじゃないと認めてもらえない。

自分は価値ある人間だと認めてもらいたい。

尊重され、大切にされたい。

 

優秀じゃないと惨めさが覆せない。

惨めで悲しくて自分なんて

価値がないという思いを覆せない。

 

根底にあるのは自分の無価値感。

自分なんてという自己否定。

それを感じなくて済むのが

人から褒められた時、認められた時なのです。

 

自分の子どもが優秀だったら

自分の惨めさを感じなくて済みます。

 

でも、それが叶わなかったら

それを手に入れた人を見て

惨めで悲しいと感じるのです。

 

 

 

 

 

クレプトマニア(窃盗症・

万引きなどを繰り返してしまう)の人は

過去に親などの大切な人から

粗末に扱われた経験を持っていて

認められたいという飢餓感がある

と聞いたことがあります。

 

「認められたいという飢餓感」

この言葉が私にはしっくりきました。

 

今までも、感情が動くことがあれば

繰り返し自分と向き合って

その都度、自分を認め、受け入れてきました。

 

それでも、この認められたいという飢餓感は

本当に根が深く、こうやって何度でも

亡霊のように湧き上がってきます。

 

もちろん、全然進歩していないわけではなく

螺旋階段のように、同じところを

ぐるぐるしているようでも

少しずつ、より深く自分を認め

受け入れられていますので

出てきた時にきちんと向き合って

対処するしかありません。

 

 

 

認められたいという飢餓感は

アダルトチルドレン(AC)の人は

みなさんあるのではないかと思います。

 

親からきちんと認めてもらえたACなど

いないと思いますから。

 

 

 

 

 

自分の惨めさ、悲しさ、劣等感

無価値感、自分なんてダメだという思いは

自分で認めてあげないと解決しません。

 

自分の外側をいくら装飾しても

(優秀な子ども、成果、実績、高給など)

解決しないのです。

 

自分の価値は

子どもの優秀さで高めるのではなく

もう自分には価値はある

始めから価値はあるのだと気づくことです。

 

 

 

 

私は、何度も自分を認め、褒めて尊重しても

繰り返し出てきてしまう

「認められたい飢餓感」を抱きしめました。

 

子どもの頃、

「認めて欲しい!認めて欲しい!」と

ずっと心で叫んでいたのです。

 

それでも、その願いを

聞き入れてもらえることはありませんでした。

 

その粗末にされる惨めさ

願っても願っても叶わない悲しさ

それらが成仏できずに

繰り返し出てきてしまうことを

私は許してあげようと思いました。

 

「そうだね、悲しかったね。

ちゃんと認めてもらいたかったね。」と

飢餓感に寄り添いました。

 

 

 

 

 

そうして自分を慰めてあげると

ものごとが客観的に見られるようになり

優秀な子を羨むのは違うなと思えてきました。

 

 

 

どんな人でも、絶対安泰な人などいなくて

先のことはわかりません。

今は良くても、この先何が起こるか

わかりません。

保障されてる人生などないのです。

 

実際、優秀すぎて先生に嫉妬されて

内申を悪く書かれるなど意地悪されたり

一流企業に就職したけれど

激務すぎてうつ病になったり

自殺してしまうことすらあるのです。

 

優秀な子を持つ親にも

その世界での大変なことが

たくさんあるのだと思いました。

 

 

 

 

 

幸せは、条件だけでは測れません。

何が幸せかは人それぞれ。

どう生きていくかも人それぞれ。

 

優秀さというのは条件のひとつに過ぎません。

 

 

 

人には、生まれてきた時に

あらかじめカードが配られていて

そのカードの中身は人それぞれ違います。

 

それはまるでトランプの大富豪のようなもの。

大富豪は、その時配られたカードだけで

ゲームを戦っていきます。

 

人生もそれと同じで

自分に配られた手持ちのカードを駆使して

自分の人生を生きていくしかありません。

 

自分が持っていないカードを

欲しがったり、羨んだりしても仕方ないのです。

 

自分が持っているカード

すなわち、自分のできること

自分の長所、自分がもう持ってるものだけで

勝負するしかないのです。

 

 

 

でも、それを残念に思ったり

不安に思う必要は全くありません。

 

なぜなら、自分が今持っているカードだけで

この人生は攻略できるようになっているからです。

 

人は、自分が自分のままで生きる時

必要なものはすべて持って生まれてくると

言われています。

 

だから、絶対に困らないのです。

 

人のカードを羨む必要はありません。

それは、自分には必要がないから

配られなかったのですから。

持ってないものはそのままでいいのです。

 

持っているものだけで

生きられるようになっているのです。

 

大事なのは

他の誰かになろうとしないこと。

自分自身のままでいること。

 

 

 

 

 

自分の心を深く旅して

元のところに戻ってきたような気分です。

 

人を羨む必要はなく

自分の現状に落ち込む必要もなく

人も、自分も、自分の子どもも

尊重され、祝福されることを願います。

 

大事なのはやっぱり

ありのままの自分でいることだと思いました。

 

 

 

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(桜ってとってもいい香りがしますね♪)

 

 

 

 

仕事を辞めようと思ったけど

 

 

 

三月末で仕事を辞めたいと上司に伝え

OKをもらっていて

私はすっかりその気になっていたのですが…

 

退職届を書く段階になったら、上司から

「月に一回でもいいから

来てもらえませんか?」と言われました。

 

「◯◯さん(私)とは、細くてもいいから

長くつながっていたい」と。

 

 

 

その月一回で、上司の手伝いをしたり

心理系イベントを仕切ったり

利用者さんとの面談などをして欲しいそうです。

(私は就労支援員です)

 

そんなふうに言ってもらえることが

ありがたくて、深く考えず

「月一回なら」とOKしました。

 

 

 

 

 

「ずっとつながっていたい」

「信頼している」

こんな言葉を言ってもらえるなんて

幸せなことです。

 

もしかして

仕事で役立つからかもしれないけれど

でも、どんなに役立っていても

居心地の悪い人や嫌な人

好きと思えない人には

「ずっとつながっていたい」という言葉は

出ないと思うのです。

 

ただ人手が欲しいだけなら

月一回なんて何の足しにもなりません。

何の意味もありません。

 

その月一回に意味があるとしたら

それはやっぱり「つながり」です。

 

つながっていることで

どんな良いことがあるのか

それはわかりませんが

信頼され、望まれていると感じました。

 

 

 

 

 

 

信頼され、望まれ、受け入れられ

評価され、歓迎されている。

 

そんな場所にいるのは心地良いものです。

 

お別れするのが悲しかった

一緒に働くスタッフや利用者さんたちと

また、たまにお会いできるというのも

嬉しいことです。

 

 

 

この居心地の良さや

会社のみんなに信頼され、望まれている

という現実を受け取っているということは

私が自分を信頼して、受け入れて

愛しているということなのだと思います。

 

私が自分に優しくできている、

「それで合ってるよ!」という

答え合わせです。

 

自分が受け取る現実は

自分の心の反映ですから。

 

 

 

好きな仕事だけど

奇跡的にやっと得た仕事だけど

辞めてしまったら

もうこの仕事には戻れないかもしれないけど

みんなとお別れするのも

みんなの期待を裏切るのも辛いけど

 

それでも私は自分の心と体の声を聞いて

自分の心と体の言う通りにする選択をしました。

 

つまり、仕事を辞める。

好きな仕事を手放す。

そう決めました。

 

仕事よりも、自分の心、自分の体

自分自身の本当の望みを優先しました。

 

自分を一番大切にしました。

 

その反映が今のこの状況なのだと思います。

本当にありがたいことです。

 

 

 

 

 

でも、月一回出勤をOKしてしまってから

「あれ?本当にこれで良かったのかな?」

と少し不安に思うことも正直あります。

 

例え月一回でも、そこに通うとなると

縁が続いているわけで完全に手放せず

私はまた縛られたように感じて

息苦しくなるのではないか?

 

その月一回のために、また緊張して

数日前から気が重くなったりしないか?

 

「◯日に会社に行かなくてはならない」と

体調や気候の心配をし

そのことに囚われるのではないか?

 

自由であるはずの残りの30日間も

ずっと縛られているような感覚に

ならないだろうか?

 

などなど。

 

 

 

でも、とりあえず今の段階では

「断ろう」とは思えず

「やってみよう」の方が大きいです。

 

なので、まずは月一回でやってみて

「やっぱり無理!」となったら

断ろうと思います。

 

私はもう、無理はしないし

我慢もしないのです。

 

 

 

 

私は、会社に行く日以外の約30日を

自由に、自分自身で過ごせるように

自分に自由を与えたいです。

 

自分を縛らない。

自分を重くしない。

気が重くなることはしない。

 

 

私は、自由で、軽やかで、楽しい毎日を

自分にプレゼントしたいと思います。

 

 

 

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