心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

認められたいという飢餓感

 

 

 

春のこの季節になると

友達や知人のお子さんが

どこの学校に入ったとか

どこに就職したとかいう話が

耳に入ってきます。

 

そういう話題に登るのは大抵優秀な子で

良い大学や一流企業などに入ったという話です。

 

私は、そういう話を聞くと

いいなぁ、羨ましいなぁと思います。

 

自分の子どもが優秀なのは

どんな気持ちなんだろうか?

さぞ誇らしいのだろう。

良い気分だろう。安心なのだろう。

 

そう思い、ちょっと心がチクンとします。

 

 

 

 

私の子どもたちには発達障害があって

そういうこともあってか

良い学校にも一流企業にも縁がありません。

 

それどころか、「普通」になりたいと

本人がどんなにがんばってもそれも難しく

せめてこの社会で生きていけるようにと

子どもの幸せを願って、願って

それでもわからない、という人生です。

 

優秀な子を持つ親は

私と全く違う世界を生きていて

きっと誇らしいのだろう、安心なのだろう

と想像して、それを手に入れられない自分が

惨めで悲しくなってしまうのです。

 

 

 

こんなふうに思ってしまうことに

子どもたちには申し訳ないと罪悪感があり

自分の子どもを「劣っている」という目で

見ているということだなと

またそこでも自己嫌悪に陥ります。

 

「優秀な子を持つ親が羨ましい」なんて

思わないでいたいですし

「私の子は素晴らしい子だ」と

胸を張っていたいです。

 

なので、私の心の「チクン」を

見つめてみることにしました。

 

 

 

 

 

その「チクン」の正体は

羨ましいという思いの下にある

圧倒的な悲しみでした。

 

優秀な子を育てて私も認められたい。

でもそうじゃないと認めてもらえない。

自分は価値ある人間だと認めてもらいたい。

尊重され、大切にされたい。

 

優秀じゃないと惨めさが覆せない。

惨めで悲しくて自分なんて

価値がないという思いを覆せない。

 

根底にあるのは自分の無価値感。

自分なんてという自己否定。

それを感じなくて済むのが

人から褒められた時、認められた時なのです。

 

自分の子どもが優秀だったら

自分の惨めさを感じなくて済みます。

 

でも、それが叶わなかったら

それを手に入れた人を見て

惨めで悲しいと感じるのです。

 

 

 

 

 

クレプトマニア(窃盗症・

万引きなどを繰り返してしまう)の人は

過去に親などの大切な人から

粗末に扱われた経験を持っていて

認められたいという飢餓感がある

と聞いたことがあります。

 

「認められたいという飢餓感」

この言葉が私にはしっくりきました。

 

今までも、感情が動くことがあれば

繰り返し自分と向き合って

その都度、自分を認め、受け入れてきました。

 

それでも、この認められたいという飢餓感は

本当に根が深く、こうやって何度でも

亡霊のように湧き上がってきます。

 

もちろん、全然進歩していないわけではなく

螺旋階段のように、同じところを

ぐるぐるしているようでも

少しずつ、より深く自分を認め

受け入れられていますので

出てきた時にきちんと向き合って

対処するしかありません。

 

 

 

認められたいという飢餓感は

アダルトチルドレン(AC)の人は

みなさんあるのではないかと思います。

 

親からきちんと認めてもらえたACなど

いないと思いますから。

 

 

 

 

 

自分の惨めさ、悲しさ、劣等感

無価値感、自分なんてダメだという思いは

自分で認めてあげないと解決しません。

 

自分の外側をいくら装飾しても

(優秀な子ども、成果、実績、高給など)

解決しないのです。

 

自分の価値は

子どもの優秀さで高めるのではなく

もう自分には価値はある

始めから価値はあるのだと気づくことです。

 

 

 

 

私は、何度も自分を認め、褒めて尊重しても

繰り返し出てきてしまう

「認められたい飢餓感」を抱きしめました。

 

子どもの頃、

「認めて欲しい!認めて欲しい!」と

ずっと心で叫んでいたのです。

 

それでも、その願いを

聞き入れてもらえることはありませんでした。

 

その粗末にされる惨めさ

願っても願っても叶わない悲しさ

それらが成仏できずに

繰り返し出てきてしまうことを

私は許してあげようと思いました。

 

「そうだね、悲しかったね。

ちゃんと認めてもらいたかったね。」と

飢餓感に寄り添いました。

 

 

 

 

 

そうして自分を慰めてあげると

ものごとが客観的に見られるようになり

優秀な子を羨むのは違うなと思えてきました。

 

 

 

どんな人でも、絶対安泰な人などいなくて

先のことはわかりません。

今は良くても、この先何が起こるか

わかりません。

保障されてる人生などないのです。

 

実際、優秀すぎて先生に嫉妬されて

内申を悪く書かれるなど意地悪されたり

一流企業に就職したけれど

激務すぎてうつ病になったり

自殺してしまうことすらあるのです。

 

優秀な子を持つ親にも

その世界での大変なことが

たくさんあるのだと思いました。

 

 

 

 

 

幸せは、条件だけでは測れません。

何が幸せかは人それぞれ。

どう生きていくかも人それぞれ。

 

優秀さというのは条件のひとつに過ぎません。

 

 

 

人には、生まれてきた時に

あらかじめカードが配られていて

そのカードの中身は人それぞれ違います。

 

それはまるでトランプの大富豪のようなもの。

大富豪は、その時配られたカードだけで

ゲームを戦っていきます。

 

人生もそれと同じで

自分に配られた手持ちのカードを駆使して

自分の人生を生きていくしかありません。

 

自分が持っていないカードを

欲しがったり、羨んだりしても仕方ないのです。

 

自分が持っているカード

すなわち、自分のできること

自分の長所、自分がもう持ってるものだけで

勝負するしかないのです。

 

 

 

でも、それを残念に思ったり

不安に思う必要は全くありません。

 

なぜなら、自分が今持っているカードだけで

この人生は攻略できるようになっているからです。

 

人は、自分が自分のままで生きる時

必要なものはすべて持って生まれてくると

言われています。

 

だから、絶対に困らないのです。

 

人のカードを羨む必要はありません。

それは、自分には必要がないから

配られなかったのですから。

持ってないものはそのままでいいのです。

 

持っているものだけで

生きられるようになっているのです。

 

大事なのは

他の誰かになろうとしないこと。

自分自身のままでいること。

 

 

 

 

 

自分の心を深く旅して

元のところに戻ってきたような気分です。

 

人を羨む必要はなく

自分の現状に落ち込む必要もなく

人も、自分も、自分の子どもも

尊重され、祝福されることを願います。

 

大事なのはやっぱり

ありのままの自分でいることだと思いました。

 

 

 

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(桜ってとってもいい香りがしますね♪)