心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

責めるエネルギー

 

 

 

私の母は

子どもを上手に愛せませんでした。

 

不安な子どもを

安心させてあげることもできず

優しい温もりを与えることもできず

あなたが大好きと肯定してあげることもできず

 

不安や不足感から

自分の思い通りにコントロールしようとして

自分の優れない感情をぶつけて

子どもの心に傷をつけてしまいました。

 

子どもだった私は

自分のことが大嫌いになり

自分なんか消えればいいと思っていました。

 

 

 

 

 

私は、そんな子どもを苦しめるような

母親として未熟な母を全否定していました。

全面的に、徹底的に、否定していました。

 

そして「優しいお母さんが良かった。

ちゃんとしたお母さんが欲しい。」と

ないものねだりをしていました。

 

 

 

また、私は、自分のことも

全然、全くもって、ダメな人間だと

責めています。

 

だから人の顔色を伺って

機嫌を取るようなことをします。

人の機嫌ばかり気にして

自分のことはお留守になっています。

 

 

 

更に、私は、人のことも責めています。

身近にいる家族、関わりのある外の人

道端で見かける通りすがりの人など

無意識に、心の中で責めています。

 

どうしてそんなことするの?

普通こうでしょう?

私ならこうするのに、と。

 

 

 

 

 

私にあるのは、基本「責めるエネルギー」。

自分も、人も、基本責める。

 

悪いところばかりが気になって

すべてを否定的にしか捉えられなくて

自分も人も、至らないところが気になります。

 

常に心の中の何者かが怒っていて

何かを怒りたくて、誰かに文句言いたくて

すべてに対して責める、責める、責める。

 

そういうものの見方が

心の奥底から染みついています。

 

 

 

 

 

そのことに、ある時、気づいたのです。

 

 

 

ああ、私はいつも文句を言っている。

いつも不満気だ。

いつも何かを否定して責めている。

 

すべてを責めている。

自分も、母も、周りの人も。

 

私の心は責めるエネルギーでいっぱいだ。

責めるエネルギーが充満している。

 

そう感じました。

 

 

 

そして、そんな自分が嫌いでした。

なんて嫌な人間なんだ、と

そこでまた自分を責めました。

 

 

 

 

責めるエネルギーというのは

本当に重くて、不快で

心にあると苦しくて仕方ありません。

 

私は、自分や周りのものを責めて

その負のエネルギーによって

自分自身が猛烈に苦しんでいたのでした。

 

自分の責めるエネルギーで

私は苦しんでいるのだ、と気づき

こんなことはもうやめたいと思いました。

 

 

 

 

 

それには、まずは、今のそんな自分

そういうものの見方が染みついた自分を

許してあげることからです。

 

「そうなってしまった理由があって

そういう環境で育ったのだから仕方ない。

そうなってしまうのは仕方ない。」

と、自分を弁護しました。

 

そして、こんなに苦しんでいる

責める自分を許してあげました。

 

 

 

 

 

責める自分を受け入れるのです。

 

それから、私は

自分の心の動きに意識的になり

「あ、今このことを責めたな」

「今このことを不満に思っているな」

と、気づいて眺めていました。

 

その心の動きを変えようとしないで

否定しないで、ただ眺めていました。

 

 

 

そうして、自分の心の動きに気づいて

眺めていると、だんだんそれが薄まり

自分の中からなくなっていくのを感じました。

 

それに従って、心は穏やかになり

いつの間にか苦しさもなくなっていました。

 

 

 

自分の苦しい心の動きも

変えようとしたり、否定しないで

湧き上がるままに、ただ眺めていると

それは流れて、薄まり

やがて消えてしまうのでした。

 

なくしたいと思うものほど

全肯定して、ありのまま受け入れると

なくなっていくのです。

 

それは、自分に対する深い愛だなと思います。

 

 

 

 

 

いつもいつも何かを責めているのは

思っている以上に苦しいものです。

 

自分が苦しいのだと気づいたら

それを手放すという選択ができます。

 

それは気づいたその瞬間から。

いつでも、誰でも。

 

 

 

f:id:miiko-3:20210927194052j:image

私の言葉が私に届きますように

 

 

 

昔の日記から。

 

 

 

*  〜  *  〜  *

 

 

 

私が、私に叫んでいること。

「私が私のままでいることを許してほしい!」

 

 

 

 

私は、自分が許せない。

 

なかなか動かない自分。

なんでも遅い自分。

植物を枯らす自分。

 

これら残念な自分にガッカリして

受け入れられない。

 

 

 

 

 

でも、自分の個性、自分そのもの

自分であること、何をどうしても

それは変わらない。

 

どんなにがんばったって

自分は自分のままだ。

 

そのままでいるしかないのだ。

 

 

 

 

 

私は「私を許して!」と言っている。

 

ごめんね。

ごめんね。

 

わかってあげられなくて

ごめんなさい。

 

私は、「私を許して!」と言っている自分に

謝罪する。

 

 

 

 

 

私は私のままでいて

自分の中に喜びを満たしていこう。

 

気にするのは周りではなくて

自分が喜んでいるかどうか。

 

自分と繋がって

自分の気持ちに気づいていよう。

 

 

 

私の言葉が

いつも私に届きますように。

 

そのことを願っています。

 

 

 

f:id:miiko-3:20210925171358j:image

「あんたってパッとしないね」

 

 

 

「あんたってパッとしないね」

私が母からよく言われていた言葉です。

 

この言葉が、私を苛み

縛りつける呪いの言葉になりました。

 

 

 

母は、私を褒めませんでした。

ちょっとくらい何かが上手くできても

「そんなの普通だ」とでも言うように

スルーです。

 

そして、特別上手くできなかった時

要するに普通な時は

「あんたってパッとしないね」と

ガッカリするのでした。

 

母は、特別に素晴らしいもの

誰もが認めるすごいことを望んでいて

それに達しないものは価値がなく

「パッとしない」と思うのです。

 

 

 

母は、子どもが素晴らしい存在になって

母親である自分の価値を高めて

自分の自尊心を満たしてくれることを

望んでいたのだと思います。

 

だから、普通の子どもではダメなのです。

普通の子どもでは、自分がもてはやされ

チヤホヤされないのですから。

 

 

 

私は、母が望む素晴らしい子どもではなくて

(何かで一番で右に出るものはいないとか

素晴らしい才能を持っているとか)

特別な才能のない平凡な子どもでしたので

母は落胆していました。

 

私にガッカリして、落胆するたびに

「あんたってパッとしないね」

と、ため息まじりに言うのでした。

 

 

 

 

 

私は、母にガッカリされるたびに

自分で自分にガッカリして

悲しい気持ちになりました。

 

「本当に自分は何をやってもダメな人間だ。

自分には価値がない。お母さんを

一度も喜ばすことができないなんて」

と、私は心の底から思いました。

 

 

 

だから、私は

「人とは違う特別な存在であることが大事」

という価値観を身につけました。

 

普通ではダメ。その他大勢ではダメ。

当たり前のことをやっているだけではダメ。

誰でもやっているようなことを

やっているだけではダメ。

 

なぜなら、それでは「パッとしない」から。

 

 

 

私は、特別な存在になること

みんなから褒められて

認められる存在になることを

自分に望むようになりました。

 

私にとって、良いものとは

「お母さんが喜ぶもの」。

母が喜ばないものには価値がないのです。

 

母は、特別じゃないと喜ばない。

 

私は、優れていないと

この世に存在する意味がないと思いました。

 

 

 

 

 

 

でも、いくらそんな観念を植えつけても

実際の自分はどうがんばっても平凡で

特別に優れた存在になどなれません。

 

大人になった私は、平凡に

ただ家事をして、子育てをしている

専業主婦なのでした。

 

だから、こんな自分は許せない

輝けない自分は生きている価値などない

と、本気で思い

この思いに長年悩まされ続けました。

 

「お母さんがガッカリするような私は

この世にいらない」と思いました。

 

 

 

 

 

この思いは本当に強くて

しつこかったのですが、今思えば

これも、ただの間違えた思い込みなのです。

 

まず、ツッコミどころとして

「良いものはお母さんが喜ぶもの」

というところ。

 

大人になった自分が冷静に考えると

「え、なんで?」となる法則です。

 

なんでお母さんが喜ぶものが良いものなの?

お母さんが喜ぶものはお母さんが喜ぶもので

良いものは他にもいっぱいあるんじゃない?

 

それにお母さんが喜んでも、喜ばなくても

その責任は私にはないよね?

それはお母さんの問題だよね?

 

お母さんが喜ぶ、喜ばないは

お母さんの価値観によって決まるけど

それはお母さんの世界の話だよね?

 

私がお母さんの価値観で生きる必要なくない?

私は、私の価値観で生きていいよね?

 

お母さんを喜ばすために生きるのではなく

私は、私が喜ぶ生き方をしてもいいよね?

 

と、呪いが解けて目が覚めると

こんなふうに考えられるようになりました。

 

 

 

また、「優れていないと

この世に存在する意味がない」という観念は

完全に優劣の世界に生きていて

優れていないと価値がないという考え。

 

これも「本当にそうかなぁ?」と考えてみます。

 

優劣ってどうやってつけるの?

 

わかりやすいものだけじゃなく

世の中には、目に見えない価値あるものもあり

また、一見劣っているように見えるけれども

それによって、実はみんなが助かっている

ということもあり

そこに線を引くことはできず

曖昧なものです。

 

この人は優れている、この人は劣っている

とはっきり分けられるものではなくて

誰の中にも優れている部分と

劣っている部分があるのだと思います。

 

さらに言うと

優れている中にも劣っている部分があり

劣っている中にも優れている部分があり

それは優劣という言葉はそぐわなくて

その人はそうなのだという「個性」

なのではないかと思うのです。

 

つまり、優劣というものがあるのではなく

それぞれ違う「個性」があるのが

人間なのです。

 

成果主義だとピンとこないかもしれませんが

そういうものを手放して

世の中をフラットに見れば

優劣とは曖昧なものなのだとわかります。

 

それには、見えない価値あるものを見つけて

感じる感性、一見良くないことの中に

素晴らしいギフトを発見する感性が

必要になるでしょう。

 

見えるものだけ

わかりやすいものだけしか信じられないと

「成果をあげる」「良い成績をとる」

「お金を稼ぐ」「人の役に立つ」など以外の

価値あるものをすくいあげられない

かもしれません。

 

 

そんなふうに考え、私が信じていた

「優れていないと価値がない」という考えは

偏狭な思い込みであることに気づきました。

 

 

 

 

 

 

「パッとしない」という呪いの言葉で

長い間眠り続けた私は

こうして目を覚ましたのでした。

 

パッとしなくても

私は、今の生活が気に入っているし

自分のことも「おもしろい人だな」と

憎めないキャラで好きです。

 

私は、パッとしなくても

このままでも良かったのです。

 

 

 

私は、私のままでいて

そのままで良かったのです。

 

 

 

f:id:miiko-3:20210924175133j:image

 

 

 

魂と繋がれないのは

 

 

 

本当の自分は魂という存在で

魂は自分を幸せへと導く羅針盤のようなもの。

 

だから、魂と繋がって

魂のメッセージをちゃんと聞き

魂の喜ぶことをすると

自分はハッピーでいられて

ものごとはスムーズに流れます。

 

「魂」というとピンとこないなら

「本当の自分」と考えるといいです。

 

 

 

 

けれど、この「魂と繋がる」というのが

なかなかに難しくて

特にアダルトチルドレンには

「さっぱりわからない」ということに

なるでしょう。

 

魂が何を望んでいるのかなんてわからない

魂が今、どう感じているかなんてわからない

魂のメッセージなんてわからない

という感じに。

 

 

 

 

以前、自分の本当の気持ちがわからないのは

未消化の感情やいらない思い込みなど

不要物を心にいっぱい溜めているからだ、

純粋な自分の心を不要物が曇らせるからだ、

というお話を書きましたが

今日のお話もそれに通ずるものがあり

さらに違う角度からのお話になります。

 

 

 

 

実は、魂と繋がれないのは

トラウマが原因なのです。

 

トラウマになるような辛い経験をすると

人は「自分が嫌い」「自分には価値がない」

「自分は愛されない」などの観念を持ちます。

 

これは、決して真実ではなくて

間違えた思い込みです。

でも、トラウマを抱える人にとっては

それは真実で、そうなのだと

固く思い込むのです。

 

 

 

でも、魂というのは、本来

すべてのものを愛したい

すべてのものをありのまま受け入れる

という純粋な愛の存在なのです。

 

魂というのは愛に溢れて

とても高い波動を放っています。

すべての人が光だと言われるのは

高い波動の魂の存在だからです。

 

 

 

でも、顕在意識の自分は

自分を嫌い、自分を否定している。

この状態だと、あまりにも

魂と波動が違いすぎて

魂の声が届かないのです。

 

自分を嫌い、否定して、受け入れない

という低い波動と

すべてを愛し、受け入れる魂の高い波動は

あまりにも乖離しすぎて、相容れないのです。

 

だから、魂のメッセージがわかりません。

 

魂は、または本当の自分は

何重にも積み重なったトラウマと自己否定の

層の下で眠ったままなのです。

 

 

 

 

だから、自己受容が大事なのです。

だから、自分を愛することが大事なのです。

だから、すべてを中立に観て

ありのまま受け入れることが大事なのです。

 

それが、魂の波動だからです。

それが、愛だからです。

 

 

 

自分や人を否定して

それからかけ離れているとうまくいかない。

自分を嫌って、自分を罰していたら

何事もうまくいかない。

 

魂の自分に気づけない。

魂とコミュニケーション取れない。

魂の望みなど叶えられないのです。

 

 

 

 

 

 

私もずっと

自分の魂の声などわかりませんでした。

知りたい、わかりたいとがんばっても

わかりませんでした。

 

そんな時にこのことを知って、本当に

いろんなことがいっぺんに腑に落ちて

ものすごくスッキリしたのを覚えています。

 

 

 

自分が現時点で、何をすべきか

それが一瞬で理解できました。

 

「私は、何を置いても

自分の感情を解放して

癒してあげなければならない。

 

そして、自分のすべてを受け入れて

愛することなのだ。」

 

それが一番大切な「今すること」なのだと

腑に落とせたのです。

 

 

 

こうして、自分のトラウマと向き合い

自分の間違った思い込みを手放し

自分を受け入れていきました。

 

自分を許し、受け入れると

世界が変わります。

 

それは、魂と同調した

優しい愛の世界なのです。

 

 

 

f:id:miiko-3:20210923194523j:image

治りませんように

 

 

 

もう何年も前になりますが

「治りませんように

べてるの家の今」(斉藤道雄)

という本を読みました。

 

 

 

精神障害やアルコール依存などを抱える人々が

北海道浦河で営む共同住居と作業所

べてるの家」。

 

ここに自ら身を置いたジャーナリストによる

ドキュメンタリーです。

 

 

 

これを読んだ時

私はこの本に書かれていることと

逆の生き方をしていたので

ハッとしたのを覚えています。

 

私は、例えば病気だったら「治りたい」

「治そう」「治さなければ」と思っていたし

成果、成功を目指していました。

 

 

 

 

 

けれど、この本では

「治りませんように」なのです。

 

それは

「そのままでいい。病気のままでいい。

治ることにしがみつかなくていい。

問題を起こして失敗しても、それで順調。

病気のままの自分が自分なんだ。」

 

という、あるがままの自分を

とことん受け入れる在り方でした。

 

それまで人から否定されてきて

自分でも自分を否定し続けてきたけれど

「このままの自分で

ここで生きていていいのだ」という

自分との和解です。

 

べてるの家では、患者それぞれ

そのままでいることが許されているのです。

 

 

 

 

 

なので、ここの方々を診ているドクターは

患者を治そうとしないそうです。

 

選択も決断も患者主体。

医者は患者を応援し、一緒に悩む存在です。

 

患者自身が自分でしっかり悩んで

考えて、自分で自分のことを語っていきます。

すると、患者は自分の思いを自分の言葉で

伝える力が育つそうです。

 

 

 

 

 

 

本の中で、「昇っていく人生」と

「降りていく人生」という生き方について

書かれています。

 

「昇っていく人生」とは

この本を読んだ時の私と同じ

成果や成功を追い求めて

どんどん拡大していく生き方。

 

一方「降りていく人生」とは

弱くて、失敗ばかりしているけれど

それでいいのだという生き方。

 

現代の日本人は「昇っていく人生」の人が多く

それが良いこと、正解のように思っている人が

ほとんどではないかと思います。

 

私もそうであったし

そうしなければならないと思っていました。

 

けれど、「昇っていく人生」はキリがなく

心はいつまでたっても平穏になりません。

 

だから、心の平穏を得たければ

「降りていく人生」の方がいいのです。

こちらの方が断然楽なのです。

 

今のそのままの自分を

受け入れているからです。

 

 

 

 

 

 

また「なつひさお」

という言葉にも出会いました。

 

患者さんの病状が悪くなる時というのが

あるそうで、それが「なつひさお」。

 

な→悩んでいる

つ→疲れている

ひ→ヒマ

さ→寂しい

お→お金がない、お腹すいた

 

こんな時に、人は病状が悪化するそうです。

 

だから、病状が悪くなる時は

人と食卓を囲むのがいいのです。

 

病が良好か、そうじゃないかは

人間仲間との接触の違いの結果だそうです。

具体的には、人に話す、人に聴いてもらう

仲間との触れ合い、など。

 

人と繋がる生き方を身に付けた人は

再発はしないそうです。

 

やっぱり人間にとって孤独は良くなくて

人と会話して、触れ合って

一緒にごはん食べたりするのが

幸せに繋がるのですね。

 

 

 

 

 

 

今になって振り返ってみると

この本に書かれていることを

今現在、私は大切にしているなと思います。

 

読んだ時にはピンとこなくて

100%理解することはできなかったけれど

今では、それを実践する自分がいます。

 

 

 

それは、どんなに不甲斐ないと思う自分でも

そのまんまの自分を丸ごと受け入れることや

 

自分を改善しようとしない

より良くなろうと目指さないことや

 

「こうすべき」「これが普通」という

人の価値観を生きるのではなく

自分自身の感覚を大切にして

自分の価値観をゆったり生きることなどです。

 

 

 

こういうことを大切に生きる時

人は、その時、病であろうと

どんな状況であろうと

心穏やかに過ごせるのだと思います。

 

 

 

生き方を見つめ直せる一冊です。

 

 

 

f:id:miiko-3:20210920185427j:image

温かい人

 

 

 

その時、私は慌てていました。

 

ある公演を観に劇場に向かっていたのですが

道に迷ってしまい、公演開始時間が

間近に迫っていたのです。

 

 

 

とても楽しみにしていた公演なので

開始時間に間に合わないなんて悲しい!

と焦っていました。

 

もう恥も外聞もなく

そこら辺の人をとっ捕まえて

「○○劇場はどう行ったらいいんですか?」

と聞きまくっていました。

 

でも、何人かの人に聞いても

みんな「知りません」「わかりません」

と言うのです。

 

誰に聞いても、みんな知らないと言う。

もう公演開始には間に合わない。

私は泣きたい気持ちになり

「どうしよう!どうしよう!」と

パニックに陥りました。

 

 

 

 

 

その時です。

 

「○○劇場に行きたいの?」

と、声をかけてきた人がいました。

 

振り向くと、それは

ホームレス風の身なりのおじさんでした。

 

私は、コンマ1秒躊躇しましたが

次の瞬間には「そうなんです!!」

と、そのおじさんにすがっていました。

 

すると、おじさんは劇場への行き方を

「この道をこう行って、次をこう行って…」

と説明してくれました。

 

ところが、道のりがややこしくて

私は内心「お、覚えられない…」と

不安に思いました。

 

でも、わからなくなったら

またその場で人に聞けばいいか、なんて

思いながら説明を聞いていました。

 

すると、おじさんは

明らかに理解してない私の表情を見て

「俺、ちょうどそっちに用事があるから

途中まで一緒に行ってやるよ」と言うのです。

 

そして、言うなり走り出しました。

おじさんは、私がかなり急いでいることも

わかっているのでした。

 

私は、おじさんが一緒に来てくれることに

安心して、とても心強く思いました。

そして、おじさんと共に走りました。

 

今思い出すと、お洒落な繁華街を

おじさんとふたりで走っている図が

自分でもおかしくて笑いが込み上げてきます。

 

 

 

そして、「ここならもうわかる」

という所まできて

「あ!こっちですね?」とわかった様子の

私を見て、おじさんは去って行きました。

 

私は「ありがとうございました!!」と

頭を下げて一言言うのが精一杯で

そのまま猛ダッシュで劇場に入りました。

 

 

 

 

 

公演は、残念ながら始まっていて

5分の遅刻でした。

 

でも、あそこでおじさんが現れなかったら

どれだけ遅れていただろうか

おじさんが一緒に走ってくれなかったら

ちゃんと辿り着けただろうか

と思うとゾッとしました。

 

私は、確かに

あのおじさんに救われたのです。

おじさんは私を助けてくれたのです。

 

 

 

 

 

別れる時、私が「ありがとうございました!」

と言うと、おじさんは

笑って手を振ってくれました。

 

もっとちゃんとお礼を言いたかった。

もっとちゃんと感謝の気持ちを伝えたかった。

それが心残りです。

 

 

 

 

今でも、この時のことを思い出すと

心が温かくなります。

 

おじさんの優しさ、気遣い、思いやりなど

おじさんの優しい心を思い出すと

涙が出そうになります。

 

今でも「ありがとう、ありがとう」と

感謝の念が湧いてきます。

おじさんの優しい心に触れられた私は

幸せものだなと思いました。

 

 

 

おじさんはすべてわかっていました。

私が劇場がわからなくて泣きそうなこと。

時間に遅れそうですごく焦っていること。

道の説明を聞いても不安に思ってること。

 

そして、それらすべてに

救いの手を差し伸べてくれたのです。

 

それは、まるで

親が愛する子どもに向けるような

無償の愛のようでした。

 

 

 

 

私は、密かに

あのおじさんは天使だったのではないか

と思っています。

 

普段はそれを隠していて

私のように困っている人がいると

サッと現れて助けてくれ

その人が大丈夫になると

またサッと姿を消してしまう。

 

そんな妄想をしています。

 

 

 

そのくらい温かい人でした。

 

身なりを見て、一瞬怯んだ自分を

恥ずかしいと思いました。

 

 

 

人を見る時は

表面上に現れているもの、すなわち

身なりや表情、発する言葉だけでなく

その奥にあるその人の本質を見るように

奥行きのある見方をしようと思いました。

 

どんな人でも

表面に現れているところだけが

その人なのではないのです。

 

人間とは、複雑で

どこまでも深く

おもしろい存在なのだと思いました。

 

 

 

ちなみに、そんなに道に迷うなら

Googleマップ使えばいいんじゃない?

と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが

私は、Googleマップを使っても

地図を見ながらでも

反対に歩いて行ってしまうほどの

方向音痴です。

 

 

 

f:id:miiko-3:20210919174503j:image

 

自分の闇を認める

 

 

 

昔の日記から。

 

 

 

*  〜  *  〜  *

 

 

 

私は、自分の闇を隠すために

マザーテレサのようになろうとする。

 

 

 

自分の真、美、善しか認めない。

 

 

 

自分の不寛容さや

人を非難して傷つけることなど

受け入れない。

 

 

 

もう、自分の闇を認めて

受け入れよう。

 

 

 

それでいいのだから。

 

 

 

不寛容さも、邪悪さも

私の一部なのだから。

 

 

 

それがあって

やっと本当の自分になれる。

 

 

 

闇、悪があるのが

自分なのだ。

 

 

 

私は

自分の闇を招き入れ、統合し

ひとりの私という人間になる。

 

 

 

これで

隠さなければならないものは

何もない。

 

 

 

安心して

自分自身でいていいのだ。

 

 

 

f:id:miiko-3:20210916182150j:image