心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

体に優しいおやつ〜そばぼうろ

 

 

 

私は、自分の体に合わないものは

なるべく食べないようにしています。

 

スイーツが大好きなのですが

小麦粉も白砂糖も乳製品も合わないので

市販のお菓子はほぼ食べられません。

 

 

 

絶対に食べないというわけではなく

たまには食べますが

普段は控えているという感じです。

 

アレルギーではないので

食べても死にはしませんけれども

食べた後に体が重くなったり

胃がもたれたり、湿疹が出たりします。

 

なので、なるべく普段は

体に合うものを取るようにしています。

 

 

 

 

そんな私の体に優しいおやつのひとつに

そばぼうろがあります。

 

そば粉は大丈夫なので

それを使って自分で作ります。

 

 

 

【レシピ】

そば粉 100g

卵   1個

てんさい糖 60g

溶かしバター 15g

ベーキングパウダー 小さじ1杯

 

↑上の材料を全部混ぜて

ひとつずつ丸めて形作り

180℃のオーブンで20分焼きます。

 

 

 

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出来上がりはこんな感じ。

素朴ですが、香ばしくて美味しいです。

 

 

 

形作る時、手にベタベタとくっつくので

手に油を塗ってから成形します。

 

焦げ目をつけてしっかりと焼くと

カリッと香ばしく美味しくなります。

 

焼きが甘いと、モサッとした食感で

食べづらいかもしれません。

 

 

 

私は、溶かしバターを

アーモンドミルクに変えて作ります。

 

本音を言うと、バターの方が

やっぱり美味しいですね。

バターが大丈夫ならバターオススメです。

 

今度は、溶かしバターの部分を

オリーブオイルや米油で

作ってみようかなとも思ってます。

 

 

 

溶かしバターの部分を

アーモンドミルクで作ると

やっぱり少しコクが足りない気がするので

アーモンドの粉末30gを生地に足して

さらに成形後、アーモンドを乗せて

焼いてみました。

 

 

 

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アーモンドのコク、香ばしさがプラスされて

美味しくなりました!

 

 

 

こんなふうに、いつも

レシピをちょっと変えたりして

自分の体に合うもので

自分が美味しいと感じるものを

作り出しています。

 

その探求が案外楽しいのです。

 

 

 

このそばぼうろは

そば粉100%なのでグルテンフリーですし

白砂糖不使用なので

体に負担のかからない優しいおやつです。

 

こういうものなら罪悪感なく

安心して食べられますね。

 

 

 

体に優しいおやつ

もっと探していきたいです!

 

 

 

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自分の成長を振り返る

 

 

 

私は、毎日日記を書いているのですが

数ヶ月前、数年前の

書いたものを読んでみると

自分がいかに変化して

成長しているかがわかります。

 

 

 

始めの頃は

「自分に集中する」「自分を愛する」と

日々頑張っているけれども、今から見ると

本当の自分の闇を知らないので

何でも上辺だけで

なかなか前に進めていませんでした。

 

でも、だんだん自分の依存心や他人軸

さまざまな我欲に気づいていきます。

 

 

 

私は、本当は、自分のことを

無力で空っぽだと自己否定していました。

 

だから、特別な人になりたくて

自分じゃない誰かになりたくて

足掻いていました。

 

 

 

そんな自分に気づき始め

自分をもっと深く見つめてみると

自分の依存した精神構造や無価値感

母との関係に苦しむ自分が見えてきました。

 

自分は無力な溺れる者で

何のために生きているのかわからない。

そんな自分が惨めで悲しかったです。

 

 

 

そんな中、苦しいながらも

「特別な自分」を手放し

ありのままの自分でいようと決めました。

 

すると、途端に無力で無能で

惨めな自分になりました。

 

 

 

 

現実は見るのも辛くなりました。

 

空虚で虚しい現実。

空っぽな自分。

母との関係に傷ついている自分。

保身がすべての自分。

 

そこを掘っていくと

自分の孤独、心細さ、不安に行き着き

怖くて、一歩も動けない心境になりました。

 

そして、もう心底疲れて

何もかもがめんどくさくてどうでもいい

という鬱状態になったのです。

 

この時期は一番辛い時期でした。

 

 

 

しばらく鬱々と過ごしていましたが

何もしないで自分を労っていたら

心は少しずつ変わってくるものです。

 

 

 

私は、自分を縛っていたものを緩めて

「自分を許す」と決めました。

 

ねば、べき、など

自分に圧力をかけない。

自分の快、不快の感じ方を最優先して

我慢したり、ねじ曲げたりしない。

母の観念をひとつひとつ検証して

マインドコントロールを緩めていく。

理想の主婦、理想の母親を手放す。

「こうでなければならない」と

自分を縛らない。

自分を否定すること、責めることは

愚かな行為だと認識する。

 

こんなことを心がけて

私は、自分を救う方向へ

舵を切ることができました。

 

 

 

そうして、自分が今何を感じているのか

快なのか、不快なのかを大切に見ていくと

次第に「今ここにいること」

「ありのまま観ること」

「そのまま感じること」などが

大切なことに気づいていきました。

 

心を開いて、今ここを体験すること。

目の前の現実をありのまま観ること。

自分に起こることを素直に

そのまんま感じること。

 

そうしていればいいのだ、

それが大切なことなのだ、

とわかってきました。

 

「今」「ここ」「ありのまま観る」

「ありのまま感じる」というのは

とてもシンプルですが

それが自分のやることで

答えなのだと思いました。

 

 

 

そうしていくうちに

心は穏やかに落ち着いて

自分は幸せだと

思えるようになってきたのです。

 

 

 

 

こうして振り返って見てみると

自分の真実を知ることは

とてつもなくキツイことなんだと思いました。

 

本当に怖くて、逃げ出したいくらい

嫌なことです。

自分の真実を知ることは。

 

自分の孤独や不安を知ったら

私は絶望して動けなくなりました。

 

 

 

でも、どん底まで降りていくと

次はやっぱりプラスに転じるものです。

 

辛くても、本当の自分を見つめることで

自分を受け入れ、助けることができるのです。

 

不安で動けない自分を「許す」。

私は、これで生き返りました。

 

そこから、自分を緩め、元気づける方向へ

進んでいけるようになったのです。

 

そして「存在の意味」「命の意味」などを

考えるようになりました。

 

どん底で絶望している時に

「自分を許す」と決めた自分を

私は誇りに思います。

 

 

 

こんなふうにして人生の旅は続いていき

これからも私は成長を続けるのでしょう。

 

自分が成長するのは

とても楽しいことです。

 

死ぬまで、これで楽しみたいと思います。

 

 

 

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悪くもないのに謝っちゃだめ

 

 

 

以前、私は、義理の姉(夫の姉)に

酷い扱いを受けていました。

 

無視される

指図される

余計な口出しをされる

文句言われる

理不尽に当たられる

怒られる

恨まれる

責められる

糾弾してくる

などなど。

 

 

 

今は、自分を守るために距離を置いて

ほとんど会うことはありません。

 

今思えば、義理の姉は発達障害があり

二次障害で精神疾患もあったのではないか

と思います。

 

そのくらい、人に対する要求が高く

柔軟性がなく、思い込みが激しく

思い通りにならないことが許せず

一度気に入らないことがあると

怒りがいつまでもおさまらず

相手を攻撃するのです。

 

そして、自分に都合の良い作り話をして

周りの人達に「自分がいかに正しいか」を

捲し立てていました。

 

明らかな嘘なのですが

まるで本当のことのように話すので

「もしかして、姉にとっては

真実なのかもしれない」と

私は空恐ろしくなりました。

 

 

 

 

 

そんな人だったので友達はひとりもなく

どこで働いても人間関係のトラブルで

長続きせず、今は働いてないと思います。

 

子どもはいませんけれど

結婚できたことは

姉にとっては幸運なことでした。

 

 

 

 

 

そんな姉から、私はよく標的にされました。

 

立場上、私の方が下ですし

義理の両親が存命の頃は両親の目が気になり

いい嫁と思ってもらいたくて

とても従順だったからです。

 

私は、姉の言うことを大人しく

「はい」と聞いて

自分が悪くもないのに

責められると謝っていました。

 

理不尽に糾弾されても

私は人目を気にして穏便にやり過ごそうと

「すみません、すみません」と

謝ってばかりいました。

 

 

 

 

 

この一連の姉との出来事が

私の心をひどく傷つけました。

 

そして、私の中に殺意すら芽生えるほどの

憎悪や怒りが溜まっていました。

 

言いなりになって謝っていた頃は

そのことに気づかず

後になってから気づき

私は、姉から酷い扱いを受けたことを

許せない思いになりました。

 

 

 

 

 

私は、姉を殺したいほど憎いと思い

怒りに駆られました。

 

でも、その怒りをよくよく掘っていくと

一番傷ついたのは、自分が自分を

守れなかったことだったのです。

 

 

 

 

人目を気にして穏便にやり過ごそうと

はいはいと言いなりになったり

自分が悪くもないのに謝ったりした。

 

このことが、ものすごく私を怒らせ

傷つけたのです。

 

 

 

それは、自分の尊厳を踏みにじり

自分の存在を軽く扱い、後回しにして

自分を無視して黙らせ

粗末に扱うことでした。

 

自分を大切にしない

愛のない行為でした。

 

自分よりも

周りの目や姉の機嫌を優先したのですから。

 

 

 

 

本当は、理不尽なことを言われたら

怒ってもいいし、言いたいこと言っていい。

悪いことしてないのなら謝らなくていい。

 

それで嫌われても、悪口言われても

波風が立っても、関係が壊れても構わない。

そういう関係は

結局は、遅かれ早かれそうなるのです。

 

だから、始めから我慢しないで

自分を守るために立ち上がって

戦っていいのだと思いました。

 

 

 

 

言いたいこと言っていいし

悪いことをしてないのに謝るのは

本当にやっちゃいけないことです。

 

本当に怒りが溜まるし、惨めになるし

自分を傷つける行為です。

 

「悪くもないのに謝っちゃダメ!

自分のために戦え!」と

私は、自分を見捨てないで

しっかり守ろうと思いました。

 

 

 

私は、勇気がなくて

自分を売り渡して守れなかったこと

我慢させて悔しい思いをさせたこと

悲しい思いをさせたこと

自分を貶めて尊厳を踏みにじったこと

自分を大切に尊重できなかったこと

などを自分に謝りました。

 

そして、自分のことは自分が守ると

決めました。

 

 

 

 

 

ある時、私はいつものように、姉に責められ

物まで投げつけられるということがありました。

 

けれど、その時は

自分の中にはっきりと怒りを感じ

思っていることを全部言うことができたのです。

 

姉を睨みつけ、怒りを露わにして

「私を馬鹿にしたら許さない!」

という気迫で、言いたいことを言いました。

 

(怒りは、自分や自分の大切なものを

守るために必要な感情です。

だから、怒りの感情が湧くことに

罪悪感を感じる必要はありません。)

 

姉も一歩も引かず、屁理屈を捏ねていましたが

それでも、私は満足でした。

 

(屁理屈を捏ねながら、姉は

怖がっているようにも見えました)

 

 

 

私は、本当に満足しました。

 

私は迎合しなかった!

私は自分の味方になった!

私は自分を裏切らなかった!

 

そのことが嬉しく

そう行動できた自分を誇らしく感じました。

 

 

 

結果は問題ではないのです。

自分が自分をどう扱ったか

そのためにどう行動したかが大事なのです。

 

そうして、自分を守り、大切にできた時

自尊心が育ち、自信も育ち

さらに自分を愛することが

できるようになっていくのでしょう。

 

自分がとても喜び

自分の内側は満たされていきます。

 

この感覚は「幸せ」だなと思います。

 

 

 

 

 

ちなみに、姉とは、その対決した時を最後に

一度も会っていません。

 

私の学びが終わったので

もう会う必要がなくなったのでしょう。

 

今、私の周りには

私を粗末に扱う人はひとりもなくて

毎日、平和に暮らしています。

 

 

 

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エネルギーが枯渇した時

 

 

 

以前、自分の中のエネルギーが枯渇して

生命力が落ちて

気力が湧かなかった時がありました。

 

何もしたくない。

外に出たくない。

人に会いたくない。

 

 

 

 

そんな時は、することはひとつ。

休養です。

 

 

 

これ以上、エネルギーを減らさないこと。

そして、エネルギーを補うこと。

 

エネルギーを減らすこととは

無理をする、我慢する、

頑張る、自分を責める、など。

 

エネルギーを補うこととは

とにかくゆっくりと休むことです。

 

 

 

何もしたくなければ本当に何もしないで

ひたすらゴロゴロダラダラし続けます。

ずっとゴロゴロダラダラしてると

いつかふと浮上する時が来ます。

 

そして、エネルギーが少し戻ったら

自分の好きなこと、やりたいことをやって

さらにエネルギーを蓄えていきます。

 

 

 

この時に、「好きなことはやっているのに

やるべきことはやらないなんてダメだ」と

家族や世間、または自分が

非難するかもしれません。

 

好きなことできるなら働け、とか

家事でもやって役に立て、とか

勉強しろ、とか

言われるかもしれません。

 

でも、ここで焦るとエネルギーを減らし

また元のコースに戻ってしまうので

注意が必要です。

 

 

 

 

心のエネルギーが枯渇してしまった人が

回復していくのには

三段階あると言われています。

 

一番下の一番しんどい段階は

やるべきことも好きなこともできない状態。

 

真ん中のちょっと元気になってきた段階は

やるべきことはできないけれど

好きなことならできる状態。

 

一番上の回復した段階は

やるべきことも好きなこともできる状態。

 

 

注意すべきなのは

真ん中のちょっと元気が戻ってきた時です。

 

やるべきことをやるのはしんどいと感じ

なかなか動けないけれど

好きなことならできるという時。

 

この時期は、家族が一番イライラして

「働けよ!」「勉強しろよ!」と

言いたくなります。

 

また、自分自身でも

「やりたいことだけやって

やるべきことをやらないなんて

自分はなんてダメな人間なんだろう」と

自分を責めてしまいます。

 

でも、回復の過程には

そういう時期が一定期間あるのだと

理解していれば、家族は長い目で見て

ゆったりと待ってあげられるでしょう。

 

自分でも

「自分は今、回復してる途中なのだ」と

自分を許してあげられるでしょう。

 

疲れてしまった自分を休養させてあげるには

長い目で見て、ゆったりと

とことんのんびりさせてあげることが

大切なのです。

 

 

 

 

何をするにしても

まずは生命力を戻すことが先決で

それには体を一番大切にすることが大事で

ゴロゴロダラダラ何もしないという時間は

省くことのできない大切な時間です。

 

そうして、何もしないこと

動けないことは怠けではありません。

 

無理せず、頑張らず、ゆったり休養して

よく眠ることで、次に浮上できるのですから

必要な時間なのです。

 

 

 

でも、それまでの

無理や我慢の度合いが酷かったり

ゴロゴロダラダラしながら

そんな自分を責めていると

浮上するのに時間がかかるかもしれません。

 

 

 

 

私も、休養しようと思いながら

なんだかいつもモヤモヤしていました。

 

そのモヤモヤを掘ってみると

私が自分に「働け」と言っていて

「頑張っているところをみんなに見せたい」

「自分はできるって証明したい」

「一人前の人間だって認めてもらいたい」

という思いが出てきました。

 

だから、休養しながら

その逆のこと「休養してちゃダメ」という

思いを持って自分を責めていたのです。

 

 

 

 

そんな時、ある映画を観ました。

 

映画については割愛しますが

主人公は「愛されたい」「認められたい」が

強すぎて、選択や行動を間違えて

どんどん破滅していくという内容でした。

 

ものごとの選択の理由が

「愛されたい」「認められたい」だと

破滅するのだと思いました。

 

私は、自分の「認められたい」気持ちに

思いを馳せました。

 

 

 

あの映画の主人公は

どうすれば良かったのだろう?

私は考えてみました。

 

見栄を張らないで

ありのままの自分でいればよかった。

周りの目や評価を気にせず

自分の好きなことに夢中になればよかった。

誰かに愛されて幸せになろうとしないで

今この瞬間に自分を愛すればよかった。

 

そうすれば、主人公は幸せになれた

と思いました。

 

 

 

周りに意識を取られないで

どう思われるか、何言われるかを気にしない。

まずは、それと決別することです。

 

そして、自分に集中する。

 

自分の内側を大切にする。

自分が喜ぶことをする。

楽しいこと、好きなことをする。

しっかり休んで英気を養う。

自分に力を与える。

 

自分を愛する。

 

 

 

結局、ここが揺らいでいると

自分は幸せを感じられません。

 

 

 

つい、意識は外に行きがちになります。

 

そうすると「こう思われたい」が出てくる。

「こう思われたくない」と焦る。

休んでいるだけだとダメな気がしてくる。

 

 

 

でも、違う。

 

好きにしていいのです。

 

一番大切なのは自分を愛することです。

 

 

 

自分を責めていると

どんなに休養していても

本当の意味で休養にはなっていません。

 

(自分を責めるというのは

ものすごいエネルギーを奪います)

 

だから、まずは自分のすべてを許して

そして、自分を愛することなのです。

 

 

 

エネルギーが枯渇して

生命力が落ちた時ほど

このことが大切になります。

 

 

 

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みんな始めは赤ちゃんだった

 

 

 

以前、実家の母が

私の子どもの頃の写真を

送ってくれたことがありました。

 

母はもう高齢なので

ダウンサイジングするために

モノの整理をしていて

その一部を送ってくれたのでしょう。

 

 

 

自分の子どもの頃の写真など

ここ何十年もまじまじと見たことなど

ありませんでした。

 

でも、久しぶりに写真を手にして

自分の子どもの頃の姿を見てみると

私は、何か感動するような

不思議な気持ちが湧くのを感じました。

 

 

 

 

自分で言うのはおかしいと重々承知ですが

赤ちゃんの私は本当にかわいい子でした。

 

瞳がとても澄んでいてきれいで

どの写真も、私は笑顔でした。

 

 

 

子どもの頃の私は、本当にいつも

ニコニコと笑っていたそうです。

 

小学校の先生にも

「目が合うと、いつもニコッと笑ってくれる」

と、家庭訪問で言われたそうです。

 

 

 

子どもの私の

その笑顔は何だったのでしょう?

 

世界を信頼していたのでしょうか?

周りの存在が愛おしかったのでしょうか?

周りはみんな味方で

友達だと思っていたのでしょうか?

 

その頃の私には

誰かを憎むとか、敵意とか

そんな概念なかったのかもしれません。

 

 

 

 

私は、純粋でした。

 

純粋だった頃の私は

瞳は美しく、いつも笑っていたのです。

 

それが、本当の私なのです。

 

 

 

あの頃、私は、何を考えていたのでしょう?

 

この世に生まれて、楽しもうと

ワクワクしていたのでしょうか?

 

私は、写真を見つめ

その頃の気持ちを感じてみました。

 

 

 

そして

「私は、純粋で神聖な存在だったのだ」

と、思い出した気がしました。

 

そして、そのことにグッときて

なんだか涙が出そうになりました。

 

 

 

 

たまには、自分の赤ちゃんの頃の写真を

ジーッと見てみるといいかもしれません。

 

特に、瞳をよーく見てみるのです。

 

きっと、胸に何か感じるものが

あると思います。

 

 

 

無垢な赤ちゃんだった頃。

純粋で、澄んでいて、きれいな瞳。

 

それが自分の本質なのです。

 

 

 

そして、それを感じられたら

今、この大人になった自分で

その純粋さを生きられたらいいですね。

 

純粋な自分は、いつも機嫌良く

ニコニコして、ワクワクと

楽しいことをしようとしていたでしょう。

 

そんなふうに

今、この大人になった自分も

生きていきたいです。

 

 

 

 

みんな、始めは赤ちゃんでした。

みんな、本当は純粋で美しい存在なのです。

 

 

 

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急いでやるのとのんびりやるのの違い

 

 

 

日常の動作を

早く早く!と急いでやるのと

自分のペースでのんびりやるのと

何が違うのだろう?

 

検証してみた。

 

 

 

 

例えば、のんびり歩いている時。

 

道端や他所のお宅の庭先などを見て

僅かな自然の変化に気づいたり

空、雲、空気を感じて

季節の流れに気づいたり

それらの美しさを感じることができる。

 

 

反対に、遅刻しそうで

ものすごく急いで歩いている時は

周りの景色など、ほとんど目に入らない。

 

季節や草花はおろか

周りの人にも目が行かない。

 

頭の中は、とにかく「早く!早く!」。

そして「○分の電車に乗るにはあと△分!」

「間に合わなかったらどうしよう」

「あそこの乗り換えスムーズに行くかな」

などの思考でいっぱいだ。

 

 

 

 

また、のんびりとお皿を洗っている時や

洗濯物を畳んでいる時。

 

手の上に水が流れる感触

お皿のキュッキュッとなる感触

洗濯物の繊維の手触り

日の光の温かさの名残りの感触

日の光の良い香り

 

そんなものを五感で

ゆったりと感じることができる。

 

それは、喜びや気持ち良さなどを

感じることに繋がる。

 

 

 

反対に、忙しくてバタバタしていて

急いで家事をしている時は

いかに合理的に早くやるかを

考えながらやっていて

「次はあれやって、その次はあれで」と

今やっていることに心はなく

もう次のやることを考えている。

 

急いでいる時は

感じることを味わう時間がもったいなくて

合理性を優先して

すぐ次の動作に移ってしまう。

 

そこに「感じる」ということは

ほとんどなくて

やっぱりここでも頭の中の思考が

忙しく動いている。

 

 

 

 

 

こう考えてみると

何をするにしても

のんびりやっている時は

喜びや気持ち良さなど「感じる」

ということが多い。

 

そして、そうやって五感を使って

感じていると、たまに

「あ!そうなんだ!」というような

気づきが起こることもある。

 

 

でも、急いでやっている時は

いかに合理的にやるか考えながらやるし

感じることを味わう時間がもったいなくて

すぐに次の動作へと移るので

あまり「感じる」ということがない。

 

「感じる」ことには

ある程度の時間、ゆとりが必要なようだ。

 

 

 

 

つまり、急いでやると思考優位になり

のんびりやると、感じることを味わい

そこに気づきも起こる。

 

 

 

 

現代人は、ほとんどの人が思考優位で

いつも頭の中で何か考えている状態だと言われる。

 

思考優位だからこそ

鬱病の人がたくさんいて

ストレスが溜まって

しんどい人がたくさんいるのだ。

 

人は、感じている時には

考えることができない。

つまり、五感に集中して感じている時は

思考はお休みしている。

 

ということは

思考優位で疲労困憊の現代人は

感じることを積極的に取り入れることで

癒されるということだ。

 

 

 

お風呂に入って

「あったか〜い♡」と感じるのも良し

風に当たって、その爽やかさを

「あ〜気持ちいい♡」と感じるのも良し

おいしいものを食べて

「おいしい♡」と感じるのも良し。

 

動作をのんびりやって

今この瞬間に自分の五感が感じていることを

味わうことも、自分を癒しへと導く。

 

何かと忙しい現代人は

あえて動作をのんびりとして

普段のバタバタとのバランスを取っていくと

いいのかもしれない。

 

そんなちょっとした心がけが

自分の心を整えて、救う。

 

 

 

本当に忙しい時や

段取り良くやらなければならない時など

テキパキと動かなければならないし

どう動くかはその時々の選択。

 

けれど、特に急いでないのなら

私は、やっぱりのんびりやりたい。

 

 

 

のんびりとやって

自分が今何をしているのか気づいていて

周りの自然や景色、季節の変化などに気づき

また、それらの感触や香り、音、味など

五感を使って存分に感じて

それらを味わい、喜び、楽しみたい。

 

 

 

 

のんびりとやって

それらを感じて、味わうというのは

瞑想そのものだな、と思った。

 

だから、急いでやるよりも

そうしたい、その方が心地いい

と思うのだ。

 

そうすると、心が整い、喜びを感じるから。

 

 

 

 

私は、今している自分の体験を

心ゆくまで味わいたい。

 

それが、私の喜びです。

 

 

 

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誰かの理想は目指さない

 

 

 

私は、良い主婦になろうと必死でした。

 

仕事をしていない専業主婦だから

余計その気持ちが強かったと思います。

 

部屋をいつも綺麗に快適にしなければ

おいしい食事を三度用意しなければ、と

こうでなければならないという

理想の主婦像がありました。

 

 

 

 

その理想の主婦像とは私の母でした。

 

私の母はいつも完璧で、こう言います。

 

「家族の健康管理は主婦の仕事。

食事作り、家族の世話は

きちんとやらなければならない。

良い奥さんにならなければならない。」

 

このプレッシャーが私を追い詰め

私は、いつも

「お母さんのようにならなければ」

と頑張っていました。

 

 

 

けれど、私は母の理想像とは程遠く

食事のメニューもうまく浮かばず

不器用で料理もイマイチで

毎日の食事作りは本当に苦痛でした。

 

テキパキと家事をするでもなく

最低限のことを適当にやっているだけでした。

 

ちゃんとやらなければとは思うのですが

それができずに、私はいつも自分を責めていました。

 

 

 

 

母は、自分と私を同一視しているので

私がもたもたダラダラしてると

許せずに、イラつきます。

 

だから、私はいつでも「今の私を

お母さんが許すわけない」と思っていました。

 

私の心の中では、「だらしない!怠け者!」

という私への罵りがいつも聞こえていました。

それは、母の声であり

私の自分自身への声でもありました。

 

 

 

それが辛くて辛くて、ある時

「私は理想の主婦にはなれない。

私はお母さんにはなれない。」と

理想の主婦になろうとすることを

投げ出したくなりました。

 

「私はできない。私は違う。」

 

 

 

ここで、ふと

「なんで私がお母さんに

ならなきゃいけないんだろう?

なんでお母さんのように

ならなきゃいけないの?

なんでお母さんの理想の人に

ならなきゃいけないの?」と思いました。

 

 

 

母が、自分と私を同一視しているのは

母の勝手で、母の世界で、母の価値観です。

 

私がそれに縛られる必要はなく

コントロールされる必要もないのです。

 

「私はお母さんになる必要はない。

理想の人になる必要もない。

私は、私のままでいていいのだ。」

と気づきました。

 

 

 

私は、そんなに悪い主婦でしょうか?

 

確かに完璧ではないけれど

家事も子育ても手抜きだらけだけど

家族はみんな私を優しく助けてくれます。

 

「だらしない!怠け者!」と

誰か私に言ったでしょうか?

そんなこと、誰にも

一回も言われたことありません。

 

私が脳内でいつも自分に言っていただけです。

 

 

 

いろいろ不調なこともあるし

苦手なことも多い

こんな私とどうつき合うか?

今までみたいに脳内で怒鳴り否定する?

それとも、私は私として

こんな不恰好な私として受け入れる?

 

 

 

今まで、私は嫌でした。

 

おいしいものたくさん作れない自分。

元気がなく疲れやすい自分。

子どもを遊びに連れて行けない自分。

苦手なものが多い自分。

いつも笑顔でいられない自分。

苦しんでいる自分。

人生を楽しめない自分。

 

こんな自分が嫌だったのです。

 

もっとハツラツとした人になりたかった。

もっと働ける人になりたかった。

 

でも、実際の自分は違うのです。

実際はそうなれないのです。

そうなろうとすると具合悪くなるのです。

 

 

嫌だろうと、なんだろうと

嫌おうと、嫌わまいと

私は、私でいることしかできません。

理想の人には頑張ってもなれないのです。

 

だったら、私で生きるしかない。

不器用で、苦手なことが多くて

いろいろ不調なこの私のままで。

 

 

 

 

私はこうなんだ、仕方ないんだ、と

私を認めてあげようと思いました。

 

不調の時に「怠け者!」なんて言わずに

休んでいる時に「だらしない!」

なんて言わずに、嫌がらず、否定せず

優しくしてあげようと思いました。

 

だって、それが私なのだから。

 

 

 

私は、誰かの理想は目指さない。

今の自分を受け入れて優しくしたいです。

 

それでも一生懸命生きているのだから

味方になって応援してあげたいです。

 

 

私は、自分の不調を受け入れ

自分の苦手を受け入れ

そのままの自分を受け入れようと思いました。

 

そして、辛い思いをさせた

それまでの自分に謝りました。

 

 

 

私は、私のままで

私の世界の中心で生きます。

 

ごめんなさい。

許してください。

ありがとう。

愛してます。

 

 

 

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