心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

困っている人が必要な人

 

 

 

以前の私は

困っている人を見つけては

助けるということをしていました。

 

 

 

困っている人、悩んでいる人

寂しそうな人、辛そうな人を見ると

自分が何かしてあげられないかと思い

気になって仕方なくて

近寄っていったりしていました。

 

そして、自分にできること

例えば、寄り添ったり、話を聴いたり

ちょっとしたお手伝いをしたりして

その人がホッとしたり、笑顔になると

私も嬉しく思い、心から

「良かった」と思っていました。

 

 

 

私は、自分が

良いことをしていると思っていたし

人に優しくする自分に満足していました。

 

これでいい。これが私。

私は人を支える人なのだ。

これが私のやるべきことなのだ。

 

そう思っていました。

 

 

 

でも、今、振り返ると

この時の私は

自分の周りに困っている人はいないか、と

常に探していたように思います。

 

困っている人がいないと

自分が困るからです。

 

私は、人を助ける自分にしか

価値がないと思っていたのです。

そうやって人のためになる自分にしか

価値がないと思っていたのです。

 

 

 

だから、人を助けた時

初めて自分に価値が生まれ

私の心は平穏になったのでした。

 

そのためには「困っている人」が必要。

 

困っている人がいなくては私が輝けない。

困っている人がいなくては私には価値がない。

だから私は、いつでも無意識に

困っている人を探していたのです。

 

 

アダルトチルドレンが陥りがちな

典型的な共依存です。

 

必要とされることを必要としている状態。

 

 

 

 

 

アダルトチルドレン

人をケアする職業に就くことが

多いそうです。

 

看護師、カウンセラー、ケアマネージャー

などなど。

 

私も、やっぱりそのようなことに興味を持ち

心理カウンセラー、家族相談士の

資格を取りました。

 

 

 

それらの資格を取るために勉強して

自分自身が癒されていったので

無駄ではなかったと思いますが

今となっては家族相談士の研修なども

なんだかどうでもよく感じます。

 

今の私は、もう人を助けることに

興味がなくなっているのです。

 

 

 

私が、私のままでいることを許して

このままの自分でいても

特に役に立つ自分じゃなくても

「いいんじゃない?」と思えるように

なったからだと思います。

 

私はもう、人を助けて

自分の価値を高める必要が

なくなったのです。

 

 

人を助けなくても

特に良い行いをしなくても

このままの自分で

楽しんだり、サボったり、ダラダラしたり

たまに悪いことをしたとしても

私の価値は変わらずに「ある」。

 

価値は、そのままそこに「ある」。

 

だから、私には

困っている人はもう必要ありません。

 

 

 

今、私は、自分で自分を許し、受け入れ

この人生を楽しむことにしか

興味がありません。

 

自分の魂を喜ばすことしか

興味がないのです。

 

 

 

私は、困っている人が必要で

困っている人を

作り出さなきゃいけない世界よりも

人々がお互いに受容する

寛容な世界の方がいいです。

 

困っている人がいない

みんなが幸せな世界の方がいいです。

 

 

 

 

もう、そういう世界に

生きようと思います。

 

実は、困っている人は

私が作り出していたのですから。

 

(人はみんな自分で幸せになれる力を

持っている。それを信じてあげるのが

本当の愛だと思います。)

 

 

 

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自分だけのために時間を使って過ごしていると

 

 

 

私の毎日の中の

何気ない喜びや心地よさは

とても簡単です。

 

 

 

ただ、自分だけのために

時間も、エネルギーも、体も

自由に使えること。

 

ただ、自分だけのために

好きなことをできる時。

 

 

 

そんな時、心は軽く

本当に嬉しいと感じます。

 

 

 

人から言われたからではなく

役目だからでもなく

やらなきゃいけないことでもなく

ただ、自分だけのために時間を過ごす時は

心も体も軽く、全然疲れません。

 

 

 

自分だけのために時間を過ごす時

罪悪感もなく、後ろめたくもなく

心からくつろいで楽しんでいると

ふと、何か思いつくことがあります。

 

そんな時に思いついたことは

ワクワクの入り口

または、自分の人生を好転させる

グッドアイデアかもしれません。

 

だから、大切に受け取って

なるべく早く実行するようにしています。

 

 

 

思いついても、それをそのままにして

何も行動しなければ

せっかくの導きを無視して

受け取らなかったことになり

「思いつく」ことが減っていくでしょう。

 

逆に、思いついたことを

すぐに行動に移していると

流れが良くなって

どんどん閃きがやってくるようになります。

 

そうして、閃き(思いついたこと)に従って

行動を起こしていると

どんどん良い流れに乗って

人生を歩んでいけるのです。

 

 

 

そんな「ふと思いつくこと」は

自分がリラックスしてくつろいでいる時

心地いいと感じている時

楽しいと無心になっている時

眠る直前、または起き抜けに

やってきます。

 

 

 

だから、日常の中から

できるだけ「ねば」「べき」を減らして

自分の「心地いい」「好き」「楽しい」を

増やしていくといいのですね。

 

 

 

 

ただ、自分だけのために

時間を使って過ごして

楽しみ、くつろいでいると

自分の心の奥底から

何かを感じることもあります。

 

それは、きっと魂の声なのでしょう。

 

 

 

私が感じたことは

魂は「生きている」というだけで

喜んでいるということ。

 

生きている。

ただそれだけで、魂は

ピョンピョン飛び跳ねるくらい

スキップして踊り回るくらい

嬉しいみたいです。

 

 

青空の下を歩いている!

自転車をこいでいる!

雲を眺めている!

風を感じている!

光を見ている!

木や花の香りを嗅いでいる!

 

そんなことが、ものすごいトキメキで

やってみたかったことで

嬉しくてしょうがないのです。

 

 

 

だったら

愛猫と鼻をくっつけて一緒に眠る、とか

家族と一緒においしいものを食べる、とか

美しい芸術を鑑賞する、なども

とびきり嬉しくて幸せなことでしょう。

 

魂的には、どうしていいかわからないくらい

豊かで、素晴らしく、嬉しく

幸せなのだろうと思います。

 

 

 

でも、この感覚は

普段は忘れてしまっています。

 

忙しかったり

やらなきゃいけないことをこなしていたり

ああでもないこうでもないと

思考がぐるぐるしていたり

過去を思い返したり

未来の心配をしていたり

 

そんなものに埋もれてしまっています。

 

 

 

だから

「忙しいと忘れてしまう。

でも、なくなってしまうわけじゃない。

立ち止まって自分の中心に戻れば

喜びの感覚に戻れるのだ。」と

理解していたいです。

 

 

 

自分だけのために時間を使って

楽しんで、くつろいで

忘れがちなこの感覚を

忘れないでいようと思います。

 

魂は、生きているだけで

飛び上がるくらい喜んでいるのです。

 

 

 

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メルカリは壮大なお店屋さんごっこ

 

 

 

2年前、コロナで自粛していた頃

メルカリを始めました。

 

 

 

家にずっといると自分の不用品が気になり

どうにかしたいけれど

売りに行くのも、フリマをやるのも

メルカリなどでネットで売るのも

どれもめんどくさいなぁ〜

と、思っていたのですが

 

自分のものは自分のペースで

自分で売ろうと一念発起して

やってみることにしたのです。

 

大袈裟ですが

自分の人生は自分で動かしたい!

と思ったからです。

 

 

 

 

 

メルカリに初出品した時は

とってもワクワクしました!

 

自分の好きな時に

好きなものを売ることができる。

主体的でいられる。

 

自分で

自分の人生を動かしているような感じがして

とても体が軽くなりました。

 

「なんだかめんどくさくて動くのが億劫だ」

ということがなくなっていました。

 

主体性を持つというのは

こんなに力を与えるものなのか、と

驚きました。

 

やっぱり人は、自分で考え、選んで

決めて、動く、ということが

大切なのだなと思いました。

 

 

 

 

 

そんな感じでメルカリを始めてみて

メルカリは意外とクリエイティブなことに

気づきました。

 

商品を魅力的に見せる写真を撮ることや

分かりやすく興味を引く文章を書くこと

出品するタイミングや価格のつけ方

値下げのタイミング、値下げ額、など

自分なりに工夫することがいっぱいあります。

 

そんなことを一生懸命やっていたら

夢中になって「すっごい楽しい!」

と思いました。

 

 

 

メルカリは、意外なものが高く売れたりして

ものを売ることも楽しいし

出品に対して反応があるのも楽しいし

購入者との何気ないやりとりも楽しいし

お金が入ることも楽しいです。

 

 

 

もうひとつ

ものに活躍の場を与えられることも

嬉しくて楽しいのだということにも

気づきました。

 

自分が持っていても忘れられて

出番のなかったものに

もう一度、活躍できる場を与えられる。

 

それは、ものを救うことになります。

人助けならぬもの助けです。

 

私は、メルカリをやっていて、まるで

保護猫の里親さんを探しているようだと

感じました。

 

保護猫の里親さん探しは

何回かやったことがあるのですが

その子猫が幸せになるように

ちゃんと育ててくれる人を見極めて

子猫を託していました。

 

 

 

メルカリでも、私が不用だと出品したものを

気に入って購入してくれる人だと

とても嬉しくて、ものに対して

「良かったね。また輝けるよ。」と

声をかけたくなりました。

 

商品が届いたあと、購入者さんから

「とても素敵なお品物で気に入りました」

などとメッセージをいただくと

ものも喜んでいるだろうと

本当に嬉しくなりました。

 

 

ものにも魂があると言われています。

 

だから、きっと、ものが

自分を喜んで使ってくれる人を

引き寄せるのではないかと思いました。

 

私がちゃんと工夫して出品して

適正な価格をつければ

ものは自分を使ってくれる人と

出会える気がしました。

 

私が、売ることに執着したり

儲けようとしたり

焦ったり、心配したりしないで

やるべきことをやったら

気楽に、その時を待てばいい。

 

楽しんでいればいいのです。

 

 

 

メルカリは、壮大なお店屋さんごっこ

お店屋さんごっこをして

遊んでいるから楽しいのです。

 

 

 

 

メルカリを始めてから2年経った今

家にはもう出品するものがなく

落ち着いてしまっています。

 

自分で何かを作り出して

それを売れる人が羨ましいです。

 

私も何かないか?と思ったのですが

考えてもありませんでした。

(不器用なので創作が苦手)

 

 

 

楽しかったなぁ〜という

私の壮大なお店屋さんごっこの話でした。

 

 

 

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豊かなマインド

 

 

 

私は、自分では働いてないけれど

人(夫)の収入で

何不自由なく暮らしています。

 

お金持ちというわけではないけど

今日、快適に寝る場所があり

明日、食べるものに困らなくて

いつでも、必要なものは買うことができるのは

豊かだなぁと思います。

 

 

 

私は、以前よく、専業主婦の自分を恥じて

罪悪感を感じていましたが

(働いてないのに普通に生活していること)

自分をけなすのではなくて

優しく味方する目線で見てみると

「私は豊かだ」というマインドがあることが

見えてきました。

 

豊かなマインドというのは

質の高いものを自分に選ぶ、とか

自分の快適のためにお金を使う、とか

自分やみんなが楽しむためにお金を使う

などです。

 

これらは、「お金がない」と思っていると

できないことです。

 

 

 

私は、竹でできた

五本指くつ下を愛用しているのですが

一足2000円弱と少し高いです。

 

でも、履いた時のサラッとした感触や

生地のしっかりした感じが好きで

ちゃんとそれ相当の価値があると思って

愛用しています。

 

ある時、そのくつ下を知人に

プレゼントしたことがあるのですが

その知人がこう言ったのです。

 

「特別なご褒美の時に履く」と。

 

私は、ちょっと驚いて

「いやいや、すごく気持ちいいから

普段から履けばいいのに」と思いました。

 

もちろん、その人が

自分の好きなようにすればいいことなので

その思いはしまっておきましたが。

 

 

 

また、別の知人で

「家族が出かけて自分ひとりの時は

もったいないからエアコンはつけない」

という人もいました。

 

それにも私は驚いて

「自分がいるじゃん!」と思いました。

 

それは

「自分の快適のためにはお金は使わない」

「自分には豊かさを与えず我慢する」

というマインドです。

 

 

 

質の高いものを自分に与えないことも

快適さを自分に与えないことも

その根底にあるのは

「お金がない」というマインド。

 

それこそが不足のマインドで

その思いでいると、いうまで経っても

お金は入ってこないでしょう。

 

自分の信じていることが

自分の現実世界を創っているからです。

 

良いことも悪いことも

自分の信じていることが

自分の目の前の世界に繰り広げられるのです。

 

 

 

 

 

基本的に「お金はある」と思っていると

普段の行動も変わってきます。

 

自分の本当に欲しいものを買う

(必要のないものは買わない)

自分が快適になるためにお金を使う

(エアコンや質の高い食品、衣類など)

自分の時間や体力のためにお金を使う

(タクシー代、高速代、指定席代など)

人にちょっとした贈り物をする

(それで自分の感謝など表現する)

人の快適や喜ぶことにお金を使う

(自分にもそうしているから)

 

などなど。

 

 

 

私が、今受け取っている豊かさは

私の内面にある「豊かさへの信頼」が

具現化したものなのだと思いました。

 

豊かさへの信頼とは

「お金はある」と思っていて

「自分は豊かだ」と

そのことを信じて疑わないことです。

 

 

 

 

思い返してみると

私がそのようなマインドなのは

母の影響があるということに気づきました。

 

私の母は、安っぽいものが嫌いで

値が張っても良いものを選びました。

 

美意識も高く

私が質の悪い安物を買うと

「安っぽい」と嫌な顔をしたものです。

 

普通のサラリーマン家庭でしたので

お金がたくさんあったわけでは

ないと思うのですが

その中で取捨選択をして、自分の

納得のいくものを選んでいたのでしょう。

 

ケチケチするのが嫌いで

必要な時には使うという豪快さがありました。

 

きっと金銭的に

苦しい時期もあったと思いますが

母は絶対に「お金がない」とは

言いませんでした。

 

親が「お金がない」とは

絶対に言わなかったので

私はお金の心配をしたことが

ありませんでした。

 

そして、品質の良いものを好む母を見て育ち

その価値観は私にもコピーされました。

 

安物を買うと母に嫌な顔をされ

良いものを買うと何も言われないので

私は、良いものを持つことに

罪悪感を感じない人間になりました。

 

 

 

こう考えると、例えばこの逆で

親がいつも「お金がない」と言っていて

自分が良いものを買うと親が嫌な顔をする

という環境だったら

自分も「お金がない」というマインドに

なるのでしょう。

 

 

 

私は、母から厳しくされ、支配され

尊厳や自由など

たくさんのものを奪われましたが

お金の心配をしないという

豊かなマインドをもらっていました。

 

私が今、自分は豊かだと思えるのは

母が豊かなマインドを

私に教えてくれたからなのです。

 

そのマインドがあれば

きっと一生お金には困らないでしょう。

 

そう思うと、私は母から

とても大きなギフトをもらっていたのです。

 

母からは、安心や愛情、優しさなど

もらえなかったものもあるけれど

人生を生きていく上で大切なものを

もらっていました。

 

母が生きているうちに

そのことに気づけて良かったです。

 

 

 

母も、私も

特別にお金を持っているわけではありません。

 

お金があるから豊かなマインドになる

というわけでもありません。

 

例えば、同じ収入であっても

「足りない!お金がない!」と思う人と

「これだけあれば暮らせる」と思う人がいます。

 

その違いなのだと思います。

 

水道の蛇口をひねればお水が出てくる

その豊かさに気づけるかどうか。

今、自分が持っているものに

気づけるかどうか、なのだと思います。

 

今、自分が持っているものを数えて

「ある」と思っていると

豊かさは流れ込んできます。

 

「ある=豊かなマインド」だからです。

 

 

 

そのことをいつも忘れず

今、自分が持っているものに

感謝していたいと思いました。

 

 

 

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「私は主体的だ」と言う

 

 

 

私は自分のやりたいことをやりたい。

人に振り回されないで

自分の中にしっかり軸を持ち

主体的でいたい。

 

私は、そう心に決めました。

自分ひとりでいる時はこう思えます。

 

 

 

でも、現実に目の前に人がいると

私は簡単に、あっという間に

人に左右される役割をこなすやり方に

戻ってしまうということを

繰り返していました。

 

すぐに人のことを考えて

自分の心がどこかへ行ってしまうのでした。

 

それは、まるで

自動的にそうするように

プログラミングされているようでした。

 

そして、結局、気づくとまた元通り。

 

人に振り回されている。

人の影響を受けまくり、軸はブレブレ。

 

主体的な自分には変われませんでした。

 

こうしよう、こんな自分になろうと

心に決めても

すぐに元に戻ってしまう。

 

 

 

 

そんなふうに

同じことを何度も繰り返して

いつまでたっても変われない自分。

 

そんな自分が情けなくて

そのたびに気分は暗く沈み込みました。

 

 

 

 

 

でも、考えてみれば

主体的というのは

私にとっては初めてのことです。

 

生まれてから、ずっと

人の言いなりになって、人に支配されて

自分というものがなかったのですから。

 

主体的なんて、自分中心なんて

これまでやったことがなくて

どうすればいいのかわからない。

 

気を許せば、すぐに

自分を後回しにして

人に合わせる自動操縦が始まる。

 

主体的なんて、初めてなのです。

 

 

 

初めてのことがうまくできないのは

当たり前ではないでしょうか?

 

私は、初めてのことが

始めからうまくできないのは

当たり前だと思いました。

 

今までやってこなかったことをやる。

今までのやり方を変える。

それには練習が必要なのです。

 

反復が必要なのです。

 

 

 

だから、うまくできなくても

元に戻ってしまっても

そんな自分を責めないで

そう気づいた時に、また

心に決めればいいのだと思いました。

 

 

 

私は、気づいた時に

「私は主体的だ」と言いました。

 

すぐに元に戻ってしまう

その折り癖をつけるように

何度も何度も繰り返し言いました。

 

例えば、硬い紙なんかで

一回折っただけでは

またピーンと伸びてしまったとしても

同じ所を何度も繰り返して折り続ければ

いつかはそこに折り癖がついて

紙は折れたままになるでしょう。

 

そのイメージで

すぐに元に戻ってしまう自分のマインドを

繰り返し繰り返し、変えていく方向で

働けかけ続けました。

 

 

 

気づいたら「私は主体的だ」と言う。

何度でも言う。

 

自分の心がどこかへ行ってしまわないように。

こう言ったら自分の中心に戻れるように。

 

常に意識しました。

 

忘れてしまって元通りになっても

嘆かず、責めず、落ち込まず

淡々と、また「私は主体的だ」と言って

自分の中心に戻ってきました。

 

そうして、諦めないで

自分を主体的に変えると決めました。

 

 

 

 

自分の現実は、自分の意識が創っているので

そうしていると、ほんの少しずつ

何ヶ月、何年もかけて

私は変わっていきました。

 

途中で

「私は主体的だ」がピンとこなくなって

「私は世界の中心だ」に

言葉を変えたりしました。

 

 

 

 

これは、何も「主体的」だけではなく

他のどんなことでも

同じようにできます。

 

「私は大切な存在だ」とか

「私は素晴らしい」とか

「私は楽しく生きる」とか

なんでも。

 

言葉に出すことで

自分に暗示をかけているので

繰り返しその言葉を聞いていると

(自分の声で自分に聞かせる)

そのうち、それが事実のような

選択を自分がするようになります。

 

例えば、「私は大切な存在だ」だと

自分を大切にする選択ができるようになって

自分を粗末にできなくなる、とか。

 

そうしていると、結果的に

周りの人にも大切にされるようになります。

 

 

 

 

自分の思い込みが現実には反映されるので

そこの部分、自分の意識を変えることで

現実は変わります。

 

だから、自分が何を考えているのか

自分がどう思っているのか、に

意識的であることは

本当に大事なことですね。

 

 

 

生きていると「自分は変われない」と

思うこともあるけれども

そんなことはないと思いました。

 

自分の意識次第なのです。

 

 

 

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行動に価値があるのではなく存在に価値がある

 

 

 

前はよく

無意識にボーッとしている時など

私は、脳内で自分のことを罵っていました。

 

 

やるべきことをきちんとやれ!

それをしなかったら

お前にはいる意味も価値もない!

ちゃんと人の役に立て!

ちゃんと働け!

 

というようなことを、よく

エゴが喚いていました。

 

 

 

ある時、いつものように

私の中でエゴが暴れて

「お前には価値がないのだから

やるべきことをちゃんとやれ!」と

言っているのを聞いた時

ふと疑問に思いました。

 

 

「ほんとにそうかな?」

 

 

そして

「それってほんとなの?真実なの?」

と自分に問いかけてみました。

 

でも、返事はありませんでした。

 

 

 

 

 

次の日、何気なくテレビをつけたら

ドラマをやっていたようで

たまたま流れてきたセリフがありました。

 

 

 

おばさん 「私には何もないからなぁ」

 

若い男性 「おばさんは、みんなの面倒を

見ようとなんてしなくていいんだよ。

おばさんは、元気でイキイキしてるだけで

みんなの支えになってるんだからさ。」

 

おばさん 「ほんと?じゃあ、何か

新しいことでも始めちゃおうかなー?」

 

 

 

 

セリフはその先も続いていましたが

私には上に書いた部分だけが

スコーンと入ってきました。

 

そして、その瞬間

それが昨日の問いの答えだとわかりました。

 

それは、私の心に、静かに

だけど揺るぎなく、確かに

ありました。

 

それが答えだ、正解だ、ということが

理屈ではなく、ただ、もう知っている

という感覚でありました。

 

 

 

私の問いかけにいつもちゃんと答えてくれる

何者なのかわからない存在の優しさに感動して

嬉しくて涙が出ました。

 

 

 

私は、自分に価値を持たせるために

人の役に立ったり、仕事をしたり

しなければならないと思っていました。

 

でも、そうじゃないのです。

 

 

 

人は、何かをするから価値があるのではなくて

その人の存在そのものに価値があるのです。

 

行動に価値があるのではなく

存在に価値があるのです。

 

現代人は、このことが理解できず

自分に無理をさせて苦しんでいる人が

いっぱいいるのだと思います。

 

そうは言っても、人の役に立たなければ

いる意味などないではないか、と

言いたくなりますが

そんな単純な話ではないのです。

 

 

 

上のセリフのように

その人は自分の人生を

ただ楽しんでいるだけなのに

その楽しそうな姿が周りの人に影響を与え

周りの人も励まされたり、自由になったり

生き方のお手本になったりして

結果、人を支えることになるのだと思います。

 

また、例えば、難病や障害で

人の手を借りなければ生きられないような人も

その人の存在のおかげで

自分に価値を見出せる人もいるでしょうし

その人が存在しているだけで

頑張れる人もいるでしょう。

 

その場合、人の手を借りて生きている人も

周りの人を支えていることになります。

 

その人の存在が、人を支えているのです。

 

 

 

 

「おばさんは、元気でイキイキしてるだけで

みんなの支えになってるんだからさ。」

というのが答えです。

 

だから、私は

いかに人の役に立つか?ではなく

いかに自分を喜ばせるか?が

大事なのだと思いました。

 

自分が自分のままで、自由に、楽しく

やりたいことをやること。

人生を謳歌し、幸せでいること。

それがやることなのだと思いました。

 

そうして、自分が幸せで

楽しそうにしていることが

周りの人にもいい影響を与えて

人を良い気分にし

結果、人のためになるのです。

 

 

 

それからは、エゴが

「ちゃんとやって!」と言ってきても

まともには受け取らず

「私はどうしたい?」と

自分に聞くようにしています。

 

私が「やりたくない」と言ったらやらない。

「こうしたい」と言ったらそうする。

 

もうエゴの言いなりにはなりません。

 

 

 

その方が、私も、周りの人も

気分良くいられるのですから。

 

 

 

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体に優しいおやつ〜アーモンドミルク抹茶プリン

 

 

 

体に優しいおやつ

夏のぷるん系のものを作ってみました。

 

 

*  〜  *  〜  *

 

 

最近、ストレスが溜まることがあり

それまで控えていたお菓子を

ドカ食いしてしまう日が続いていました。

 

菓子パン、スナック菓子、チョコレート

アイス、唐揚げ、蜜かけスイートポテト…

自分が食べたいと思うもの

全部食べました。

 

本当に楽しかったし、満たされました!

脳が。笑

 

特に、一番ガツンと快楽を感じたのは

スナック菓子でした。

ポテチも、チーズ系スナックも

一袋ペロリでした。

 

この感じ…この止められない感じ

まさに「薬」だなと思いました。

 

ストレスは解消され

本当にスッキリとするのです。

 

でも、それには必ず代償があります。

 

 

 

 

そんな暴食の日が何日か続いたある日

(連日ではなく週に2回くらい)

菓子パンを四つ食べた夜

胃が痛いような気持ち悪いような

なんとも言えない不快感に襲われたのです。

 

私は「あ、もうダメだ。胃が限界だ。」

と悟りました。

 

その胃の不快感は

丸々一週間続きました。

相当なダメージのようでした。

 

去年の4月から食生活を変え、一年以上

体に優しいものばかり食べていた体に

いきなりの大量ジャンクフードは

相当な負担になったことでしょう。

 

白砂糖、小麦粉、乳製品

質の悪い油のオンパレードなのですから。

 

 

 

胃の不快感を感じて

私はやっと目が覚めました。

 

お菓子を食べると

本当に気分はスッキリするけれども

体が心地よくないので

やっぱり控えようと思いました。

 

そう自覚すると

もうお菓子を食べないでいても

大丈夫になりました。

 

不思議なものです。

 

 

 

なので、今はまた

白砂糖、小麦粉、乳製品、豆類、白米

豚肉、牛肉、胡麻、カフェインなどを

控える毎日です。

 

 

 

昔、好きなものを好きなだけ食べていた頃は

お菓子をたくさん食べたからといって

こんなに体調不良にはなりませんでした。

 

それが、自分の体に合わないものをやめて

体に優しい食生活にして

体が本来の状態、ニュートラルになったら

少し体に合わないものを食べただけでも

胃がもたれたり、痛くなったりと

すぐに反応するようになりました。

 

昔は体の感覚が麻痺していたのです。

けれど、体をニュートラルにすると

体は敏感に反応して

私に雄弁に訴えてくるようです。

 

「それは体に入れないで」とか

「もうそれ以上は処理できないよ」とか。

 

この体と対話できる状態が

本来のあるべき状態なのだと思います。

 

 

 

けれど、この体の訴えを無視していると

きっとまた何も感じない

感覚の麻痺した体に戻ってしまうのでしょう。

 

だから、私は体の言うことには

大人しく従うことにしています。

 

そうやって、体と仲良くしていた方が

自分も心地いいからです。

 

 

 

 

さて、体に優しいおやつです。

 

今回は、アーモンドミルクと抹茶で

冷たくてぷるんとしたものを作ってみました。

 

 

【アーモンドミルク抹茶プリン】

2個分

 

アーモンドミルク  250cc

てんさい糖      30g

寒天(粉末)    小さじ半分

本葛粉        5g

抹茶         5g

※ お好みでメープルシロップ

 

 

① 抹茶は少量のお湯で溶かしておく

② 抹茶以外の材料をすべて鍋に入れ混ぜる

(葛が溶けにくい時はそのまま

少し時間をおくと溶ける)

③ 材料が混ざった状態になったら火にかけ

ふつふつしてきたら弱火にして

混ぜながら4〜5分煮る

④ 鍋に溶かした抹茶を入れ、さらに混ぜる

(抹茶は粉末のまま入れるとダマになる)

⑤ 全体が均一になったら型に流し入れ

粗熱が取れたら冷蔵庫で冷やし固める

 

メープルシロップをたっぷりかけて食べると

とても美味しいです♪

 

 

 

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アーモンドミルクを豆乳に

抹茶を胡麻に変えても美味しそうです。

胡麻を入れる場合は15gです。

 

私は、豆乳も胡麻もダメなので

アーモンドミルクと抹茶にしました。

 

 

 

それと、ゼラチンは牛や豚のコラーゲンから

作られるので、私はNGでした。

寒天は海藻、葛は植物なので

大丈夫なのですね。

おもしろいです。

 

寒天が入っているので

少しサクサクした感じもあるけれど

口に入れるとすぐに溶けてしまう

口溶けの良さもあり癖になる食感。

 

もう少し水分(アーモンドミルク)を

多くしたら、もっと柔らかくなるのかな?

固さはお好みで変えてもいいですね。

 

苦いのが苦手な方は

抹茶の分量を3〜4gに減らしても

いいかもしれません。

 

 

 

 

冷たくて、甘くて、ぷるんとしたものを

食べたくなったら

また作って食べようと思います♡

 

 

 

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