心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

「こうしたい」を形にする

 

 

 

毎日毎日

ベランダの植物たちに癒されています。

 

 

 

根を張って

太陽に向かって伸びて

頑張って成長している姿に

嬉しくなります。

 

一生懸命生きている姿に

励まされます。

 

 

 

今、私の家のベランダにある植物たちは

コロナで長い自粛期間を過ごしていた時

私が始めたベランダガーデニングです。

 

 

 

実は、私は火の手で

それまで観葉植物など

どれもこれも枯らしてしまって

育てることはできませんでした。

 

だから、植物は大好きなのに

「どうせ私にはできない」と

ベランダガーデニングは

ずっと諦めていたのです。

 

「やってみたい」と思いながら

でもまた失敗したらと思うと怖くて

失敗して道具や植物が無駄になるのが嫌で

ずっと諦めていました。

 

 

 

でも、コロナ禍という非日常を過ごして

「時間もあるし、家で楽しめるし

やってみようかな」と気持ちが変わりました。

 

そして、「失敗してもいいよ」と

自分に許しを与えて

やってみることにしたのです。

 

 

 

 

スタートは、まず、私が「こうしたい」

という思いを持つことからでした。

 

そして、何もないところから

ひとつひとつ調べて、準備して、揃えて

出来上がっていきました。

 

何を育てるか植物を選び

いろいろある種類から鉢を選び

土を買い、鉢底に敷くネットや石を買い

植物を鉢に植えて出来上がりました。

 

それは、思いを形にすべく

そのように行動したからできました。

 

 

 

何もなかったベランダに

植物が現れて、存在した時

私は感動しました。

 

「私の思いが具現化した!」と思ったのです。

 

ベランダには何もなかったのに

今は植物がある。

私が創造したのだ!と。

 

その思いを噛み締めて

私は幸せでした。

 

 

 

私は、自分の世界を創造することができる。

 

ベランダの植物たちのように

ひとつひとつ調べて勉強して

準備して、行動して

創っていけばいいのです。

 

「こうしたい」という思いをまず持って

次に行動すればいいのです。

 

とてもシンプル。

そして楽しいです。

 

さあ、どんどん「こうしたい」を

見つけよう!

そして、思いを形にしていこう!

と思いました。

 

 

 

ちなみに、火の手だった私ですが

ものすごく調べて

初心者でも育てられそうな植物

また、うちのベランダの条件でも

耐えられそうな植物を選んでみたら

案外大丈夫でした。

 

今、2年経っていますが

今のところ元気にしています。

 

もちろん、枯れてしまった植物もあります。

うちのベランダの悪環境に

耐えられなかったのでしょう。

(夏は高温で日当たりが悪い)

 

だから、その植物が

うちのベランダの悪環境に耐えられるか

よく調べることが大切だなと思いました。

 

それと、毎日必ず様子を見ること。

そんなこと当たり前だと言われそうですが

以前の私は、それができなかったのです。

 

 

 

環境に合った植物を選ぶこと

初心者にも育てられそうな植物を選ぶこと

毎日観察して、水やりや肥料、日当たりなど

その植物に合った対応をすること、などで

火の手の私にも植物を育てることが

できました。

 

もちろん失敗もあるのですが

「どうせ枯らしちゃう。私には無理。」

と、諦めなくて本当に良かったです。

 

 

 

毎朝、起きたら、まずベランダに出て

植物たちの様子を見るのですが

その時間が本当に嬉しくて

心が満たされるのです。

 

植物たちを見て

「かわいいな♡かわいいな♡」と思います。

 

こんな時間を持てるのも

こんな思いをできるのも

「失敗してもいいからやろう」と

私が行動したからです。

 

 

 

本当に、やってみて良かったです。

 

 

 

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エゴの視点

 

 

 

思い通りにコントロールしたい。

理想通りになってほしい。

自分の正しさを証明したい。

自分の方が上だと思う。

自分の価値を高めたい。

人や自分を批判したい。

自慢したい。

特別に扱われたい。

人に認めてもらいたい。

などなど。

 

 

 

こんな時、自分の意識は

エゴに乗っ取られています。

これらは、エゴからの発想

エゴの考え方です。

 

だから、そんな自分に気づいたら

「今、私はエゴに支配されている」と

意識化して、自分を観察します。

 

そして、エゴに

「OK!ありがとう!もう大丈夫だよ!」

と爽やかに手を振るのです。

 

 

 

 

 

思えば、以前の私は、気がつくと

いつも自分を責めていました。

 

PC関連に疎い

車の運転が苦手

使える資格を持ってない

家事が適当

みんなが喜ぶ料理が作れない

行動が全部遅い

うまくできないことだらけ

不器用

などなど。

 

 

 

今思い返すと、これらは

全部エゴの視点だなぁと思います。

 

できないことばかり注目して

まるで何もかもダメという評価。

理想が高すぎ。要求が高すぎ。

 

できる人と比較して

自分はダメだと思っています。

 

そして「こんな自分じゃダメだ」と

焦っています。

 

 

 

エゴは非現実的。

エゴは極端。

エゴは比較、否定が大好き。

エゴはダメなところに注目して

不安を煽ってくる。

 

エゴの言っていることを

鵜呑みにすると危険です。

それは現実ではないからです。

 

 

 

落ち着いて、現実をよく見てみよう。

本当に自分は何もかもダメか?

人より劣っていてはダメなのか?

 

 

 

確かに、私は不器用だし

ゆっくりだし、機械に弱いです。

 

でも、私は自分にできることを

一生懸命やっています。

 

エネルギーがないなりに

ゆっくりと、少しずつ。

家事もそこそこやっているし

こうしてブログも書いています。

 

 

 

何より、たくさんの時間を使って

自分と向き合っています。

 

自分と向き合うのは

エゴは嫌がるけれども

私は誇れることだと思います。

 

私は、自分のやるべきことをやっています。

何も生み出さないし

人に評価はしてもらえないけれど

私にとっては大切なことです。

 

 

 

私は、いばれるくらい、人よりも

劣っているところがたくさんあります。

 

体も小さいし、体力ないし

能力的にもいろいろポンコツです。

 

それって、ダメなんでしょうかね?

人より劣っているのは

ダメなことなんでしょうかね?

 

 

 

「そんなんじゃダメ!

もっと能力を身につけて

頑張らなければならない!

もっともっと!」と言っているのは

エゴなのではないでしょうか。

 

エゴが、人より劣っていることに

耐えられないのでは?

エゴが、人より劣っていると

自分の安全を保てないと

恐れているのでは?

 

 

エゴが「自分は人より劣っている」

と、認識したとしても

それはエゴがそう思っただけです。

 

 

 

現実には、この世界は

良いところ、悪いところ

得意なところ、苦手なところを

いろいろな組み合わせで持っている

個性豊かな人々がいるところなのです。

 

「劣っている」のではなく

「個性」なのです。

 

悪いところや苦手なところだけに注目して

「人より劣っている」と思うのは

本当に滑稽なことです。

 

人はみんなそれぞれ違って

ユニークな存在で

それぞれが、それでいいのです。

 

 

 

私は、ゆっくりやってもいいし

自分のペースで休んでもいい。

 

誰かと比較して「劣っている」と思っても

それでいい。

 

「これが今の私」

そう胸を張っていいと思ってます。

 

 

 

だから、エゴに

「OK!ありがとう!

でも、もう大丈夫だよ!」と言おう♡

 

 

 

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自分をわかってあげる

 

 

 

自信のなさ

自己肯定感の低さ

自己否定

劣等感

空虚感

孤独感

不安

恐怖

 

これらが私の心に居座り

私を苦しめ続けた。

 

 

 

どんなセッションを受けても

どんなワークをしても

どんなに自分でポジティブになろうとしても

変わらずに、そこにあり続けた。

 

 

 

破壊された心。

成長を止めた心。

空虚と孤独が横たわる心。

 

 

 

これらは

 

親からありのままの自分を拒否される

親から一体化される

親から非現実的な高い要求をされる

親から失望され非難される

自分の感じ方や判断を捨て

親の感じ方や判断で親の分身として

生きることを要求される

 

などによって現れる心の反応。

 

子どもの頃に経験したことに対する

心の反応。

普通の子どもに起こる当然の心の変化。

 

自分が悪いからとか

自分に価値がないから

こうなっているのではない。

 

 

子どもが罪を犯したわけではなく

たまたま親が未熟な人間だっただけで

人はこんな苦しみを味わう。

 

 

 

 

私は、人間の姿をしているけれど

中身は空っぽで

人間としての意志や判断、決定

愛、楽しさはなかった。

 

孤独と恐怖の世界に苦しむ操り人形。

私は、操り人形だったのだ。

 

 

なんと恐ろしく、痛ましいことだろう。

精神を破壊されて

幸せになれるわけがない。

 

 

 

 

私は、自分を取り戻す決心をした。

でも、どうすればいいのだろう?

 

 

 

過去の自分に起こったこと

今の自分に起きていること

今の自分の状態、在り方、考え方、捉え方

今のありのままの自分

 

これらを正面から、素直に

ありのまま、そのまんま見てみた。

 

自分の現在地を知る。

 

 

 

それは辛いことだけれど

でも、自分の現在地を知れたなら

もう半分くらいは救われたようなものだ。

 

 

 

現在地がわかれば

幸せに向かって進むことができる。

スタート地点に立つことができる。

 

 

 

自分はひとりの人間なのだと知り

自分には自分のことを決める権利があると知り

傷ついた自分を労っていいと知り

自分は幸せになっていいと知る。

 

自分は傷を負っているのだ。

手当をしてあげなくちゃいけないし

優しく抱きしめてあげなくちゃいけないし

無理をさせないように

休ませてあげなくちゃいけない。

 

そうできるのも

今の自分のありのままを認識したから。

自分のことをわかってあげたから。

 

 

 

一番辛いのは

自分で自分のことが全然わかってないこと。

 

 

辛いのは確か。

現実の生活が上手くいかないのも確か。

 

でも、なぜそうなるのかわからない。

なぜ自分が辛いのかもわからない。

自分の中がぐちゃぐちゃで

自分の気持ちなんかわからない。

 

好きなのか嫌いなのかもわからない。

本当は大嫌いなのに

好きなように振る舞っていることはよくある。

でも自分ではわからない。

 

本当は死にたいほど辛いのに

笑って「全然大丈夫」と言う。

「死にたいほど辛い」は麻痺していて

わからない。

 

無性にイライラしたり

落ち込んだりするけれど

なぜそうなるのかわからない。

何がどうなっているのかわからない。

 

そんなふうに自分の中が混沌としていて

本当の自分、ありのままの自分が

わからないから

自分に嘘をつくことになるし

もちろん人にも絶えず嘘をついているし

自分に無理をさせ、我慢させ

自分に対して酷い扱いをしてしまう。

 

 

 

こんな状態が一番辛い。

自分で自分のことが

全然わかってない状態。

 

だから、自分を知ることは

本当に大事なのだ。

すべてはそこから始まるのだ。

 

 

 

本当のこと、本当の自分を知ると

あまりの痛ましさに

涙が出るかもしれない。

 

辛い気持ちを再体験するかもしれない。

 

 

でも、スタート地点は

本当の自分を知ることから。

ここは避けて通れない。

 

 

 

私は、最大の愛と優しさで自分を包み

幸せへの旅を歩んでいく。

自分への優しさがあれば

きっと大丈夫。

 

 

 

 

過去の辛い体験は

これから幸せになるために起こった。

物語は大きく展開していく。

 

だから、いつまでも

第一幕を演じなくていい。

もうそれは終わった。

もう第一幕の幕は閉じたのだ。

 

ここから、主人公の自分が

どんどん幸せになっていくという

ストーリー展開になっている。

 

 

 

だから、きっと大丈夫。

ただ、自分を愛していればいい。

 

 

 

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ベランダの鉢植え

 

 

 

緑が元気いっぱいに茂るのを見るのは

なんて嬉しいのだろう。

花が咲くのを見るのは

なんて嬉しいのだろう。

 


花はやがて枯れて朽ちるけれど

季節が巡り、その季節が来れば

また咲く。

 

その花の季節が来て

咲いている花を見るのは

本当に喜ばしいことだ。

 

 

 


カラミンサの葉は冬は消失するけれど

死んでしまったわけではない。

春になると、また生えてくる。

 

冬の間も根っこは生きていて

季節を伺っているのだ。

そして、その季節になると

またぐんぐん成長して

葉は青々と生い茂る。

 

その葉の勢い。生命力。

太陽に向かって伸ばしていく力。

なんて清々しく

見る者に勇気を与えてくれる姿だろう。

 

そのまま成長を続け

もうしばらくしたら花が咲く。

 

 


茂る葉を見られること

咲く花を見られることは

なんて豊かで幸せな時間だろう。

 

 

 


アメリカの絵本作家である

ターシャ テューダーは言っていた。

ずっと咲き続ける花はない、と。

 


花は咲き、枯れても季節は巡り

その季節になれば

また咲く。

 


咲く季節、枯れ朽ち果てる季節

眠る季節、成長を始める季節

そして、また咲く季節。

 


季節は巡り続ける。

 

 


その季節を味わって楽しむのは

なんて嬉しいことだろうか。

植物の変化を見るのは楽しいことだ。

 

それはどの季節も。

 

 

 


ベランダの鉢植えが

そんなことを教えてくれた。

 

 

 

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甘えがある人は人から奪う

 

 

 

人に、延々と自分の話を聴いてもらう。

自分の愚痴、弱音、不平不満、悪口を

一方的に聴いてもらう。

 

こんなシチュエーション

よくあることかもしれません。

 

 

 

 

これの聴く側になったことが

あるでしょうか?

 

聴く側は、話が終わった時

ドッと疲れるのです。

 

自分の話は一切せず(させてもらえず)

一方的に人の話を親身になって聴くのは

とてもエネルギーを使う行為。

 

話した方は自分は楽しくて

すっきりしたかもしれないけれど

その実体は、相手のエネルギー

体力、時間を奪っているのです。

 

そのことに無頓着な人が多い。

 

 

 

 

私も、以前、いい人のふりをしていた時

よく、この聴く側の役目を引き受けました。

 

始めは「この人のために」と思って

親身になって聴くのだけれど

それが度重なり、頻繁に長時間になってくると

疲れ果てて「もういい加減にして!」

という気分になりました。

 

 

 

 

本当は

これは私が自分で招いていることです。

 

始めに、聴いてあげようと

受け入れたのは自分ですし

我慢し続けたのも自分だからです。

 

相手は、「この人聴いてくれる」と

思うから話し続けるし

感じ良く受け入れてもらえるから

「もっと話したい。ずっと話したい。」と

どんどん要求がエスカレートしてくるのです。

 

だから、相手に悪気はないでしょう。

 

嫌ならば、そんなに怒りを溜める前に

私がそれを相手に伝えなければならないのです。

 

それをしないで「いいよ、いいよ」と

ずっと良い顔していれば

相手の要求はどんどんエスカレートして

頻繁に、長時間

話を聴かされる羽目になります。

 

そもそも、いい人と思ってもらいたくて

人の話を親身になって聴いているのだから

その時点で間違っているのですけれども。

 

 

 

 

今では、そう反省している私ですが

その頃は本当にウンザリして

「あの人は私の時間を奪っていることに

気づかない。それは甘えだ。」と

思っていました。

 

人の時間を奪ってでも

自分が大切にされたいのだ、と。

 

 

 

 

けれど、自分のことを振り返ってみると

私も今までの人生で

同じことをやっていたのだと気づきました。

 

 

 

例えば、友達の家にお邪魔して

話が弾んで長居してしまった時。

 

本当に話は弾んでいたのか?

私が気持ちよく話していただけでは?

友達は「帰って」とは言えない。

もしかしたら、その友達の時間や

エネルギーを奪っていたかもしれません。

 

 

 

例えば、お店などで

特別扱いされることを望んで

平然とそれを受け取っている、とか。

 

もちろん、ずうずうしいことを

お願いしているわけではないですし

お店側が気を遣って提案してくれることを

ありがたく受け取っているつもりですが

そうしてくれるように

私が仕向けてはいなかったか?

 

もしかしたら、私は

お店のサービス、お金、時間を

奪っていたのかもしれません。

 

 

 

こんな場面は、人生で何度もあるでしょう。

 

きっと、私も今まで何度も

人のエネルギーや時間を奪ってきたのです。

 

 

 

奪っているつもりはないですが

心の底に「大切にされたい。優遇されたい。」

という気持ちがあったと思います。

 

「人から特別に扱ってもらいたい。

人から親切にされたい。」という思いが強いと

人からエネルギーや時間を奪ってしまうのです。

 

 

 

 

その思いは、言い換えれば「甘え」です。

 

母親にしてもらいたかったことを

今、目の前の人にしてもらいたい。

 

受け入れてもらいたい。

話を聴いてもらいたい。

優しくされたい。

大切にされたい。

特別扱いしてもらいたい。

 

子どもの頃に、母親にそうしてもらえなくて

その部分が足りなくて、枯渇してて

誰かにしてもらいたいのです。

 

今でも、誰かに甘えたいのです。

 

 

 

ただ、自分の足りないものが欲しくて

まったく無自覚に

人から奪ってしまいます。

 

私は、そのからくりに気づきました。

 

 

 

そうとわかれば

自分のやるべきことがわかります。

 

無自覚に人からもらおうとしていた

優しさ、親切、大切にする、特別扱い

優遇する、受け入れる、などを

自分で自分にしてあげればいいのです。

 

周りの人に

それをやってもらおうとしないで

自分で自分を大切にすればいいのです。

 

 

 

私は、自分の甘えたい気持ちを認めて

自分が自分によしよしと

甘えさせてあげようと思いました。

 

 

 

そのことに気づいてから

人から無闇にエネルギーを奪うことには

気をつけるようになりました。

 

相手には相手の生活があり

人生があります。

相手には相手の目的なり望みがあります。

 

それを尊重して

自分のことも大切にしたい。

 

 

 

 

エネルギーという観点からものごとを見ると

そのバランスを取ることの大切さを思います。

 

どちらか一方があげ続けるのは

やっぱりバランスが悪いです。

 

もし、自分の話を人に聴いてもらったら

その場のお茶代は自分が払うとか

何かプレゼントする、とかするのが

マナーだなと思います。

 

お互いに楽しくおしゃべりするのは

おおらかでいていいと思いますが…

 

いつもいつも自分の話ばかりして

聴いてもらう一方なら

自分は相手のエネルギーや時間を

いただいているのだということは

自覚していたいですね。

 

それが自覚できると

そのあとの行動は変わってくるでしょう。

 

 

 

シンプルに、自分のことも、人のことも

大切にするのが気持ちよく過ごすコツです。

 

 

 

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自信を取り戻すには

 

 

 

自分を大切にしたい

自分を愛せるようになりたい、と

どんなに願っても

それがなかなか難しくて

できないでいる人は多いと思います。

 

自分を大切にし愛するには

まず、自分が自分のことを

肯定していなければできないですし

自分に自信を持っていなければ

できないことだからです。

 

 

 

自分なんて、と自分を否定している状態で

人よりも自分を優先することは

矛盾が生じて難しいのです。

 

否定している自分なんかより

人を優先して大切にする、という方が

矛盾がなく、自然な在り方になります。

 

よって、自己肯定感や自信がないと

自分を大切にし愛するのは

難しく感じるのです。

 

 

 

 

私もずっとこの状態でいて

自分を一番大切にするということが

なかなかできませんでした。

 

でも、自分に肯定感や自信がないから

自分を愛せないのだということに気づいて

私は、自分の肯定感の低さ、自信のなさと

がっつり向き合う決心をしました。

 

 

 

そんな時、とても役に立った本が

加藤諦三さんの「自信」です。

 

一部抜粋します。

 

 

・自分に関する決断は自分がしなければならない。自分の決断を他人に代わりにやってもらっている限り、自信を持つことはできない。

 

・操作という関係は、一方(親)に不満を、他方(子ども)に良心の呵責をもらたす。この操作という関係こそ自分から自信を奪ってしまったものなのである。

 

・自分自身に失望している人(母親)は、容易に他人(子ども)に失望し、他人を非難する。自分自身に失望した人の自己本位な感情や期待に負けて、子は自信を喪失する。

 

・歪んだ関係の中で、自分は「つくられた自分」であるからこそ自己肯定感がない。

 

・自分の本当の感じ方を自分や他人に偽ることは、自信喪失を招く。

 

・自分が自分のままで努力した時に自信を強め、自分が自分を否定して自分以外のものになろうと努力した時、劣等感を強める。

 

・依存心の強い親に気に入られようとするから、できないことをしようとして(非現実的に要求が高いので)自信を喪失する。依存心の強い親に嫌われることを恐れるから劣等感に苦しむ。

 

・自分の本当の感情を知ることを禁止しないということは、自分を偽らないということ。自己主張なくして自信はない。自己主張とは自分を偽らないこと。

 

・自信を持ちたければ、自分に適合した考え方をし、自分に適合した生き方をする。

 

・自信にとって戦いの場は必要。自信とは自分が自分に依存していること。甘えとは自分が心理的に他人に依存していること。甘えている者は他人の是認、賞賛なしには自己確立できないので自信の欠如に苦しむ。戦いこそが甘えを切り捨てる。

 

・自分に肯定感が持てない人は、さるが泳ぐ練習、魚が木登りの練習のようなことをやっている。自分自身であればいい。

 

・自分の価値を信じられない人は、親が自分を受け入れてくれなかったから、他人もまた自分を受け入れてくれないと錯覚してしまった。

 

・他者との関係を円満にしようと過度に配慮するのは、自分の内面の孤立感から目を背けるため。

 

・自分の内面の空虚感や孤立感から逃げるのか、立ち向かうのか。逃げた者は心の病になっていく。

 

・絶えず緊張して疲労の激しい人は防衛的な人。防衛的な人が自分の深層にあるものを恐れるのは、小さい頃、自分にとっての重要な人がありのままの自分を拒否したからである。

 

・防衛的性格で生きながらえていると、生きることの意味がわからなくなる。防衛的である限り、けっして創造的にはなれない。

 

 

抜粋は以上です。

 

 

 

 

この本を読んで、私は、

自分に当てはまっているところが

たくさんあり過ぎて

本当に目から鱗が落ちるようでした。

 

自分はなぜ自己肯定感が低いのか。

なぜ自信がないのか。

そして、それらを取り戻すには

どうすればいいのか。

 

その答えを得たように感じ

本当にすっきりしました。

 

 

 

この本を読んでから

私が心がけたことは5つあります。

 

1、自分のことは自分で決断する。

2、自己主張する。

3、自分を偽らない。

4、ありのままの自分を知る、認める。

5、戦う。

 

 

 

子どもの頃、母親に支配されていると

(あるいは他の要因で安心した環境で

育つことができないと)

健全に育っていれば当たり前に持っている

自尊心、自己肯定感、自信

他者や世界を信頼する力などが

欠如してしまいます。

 

その欠如している不健全な自分を

まず、ありのまま認めることが第一です。

 

「自分には、こういうことが起こって

今自分はこういう状態になっている。」と

ありのままの自分を「知る」のです。

 

 

 

そして、「じゃあ自分はどうなりたい?

自分はこれからどうしたい?」と

今現在の自分が行動の選択をします。

 

今、自分のことを決める権利は

100%自分にあります。

 

「決める」「選ぶ」のは自分です。

 

 

 

そうして、少しずつ

自分の足場を固めていきました。

 

「自分自身であればいい」

 

シンプルにこれだけなのだと思います。

 

 

 

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自信がないと自分を大切にできない

 

 

 

私はいつも、人の期待に応えたくて

人が喜ぶようにサービスしたくて

人を嫌な気分にさせたくなくて

自分が我慢して、犠牲になって

人に尽くしてきました。

 

 

 

そうして人の機嫌を伺って

無理をして、いい人になっていると

そのうち、疲れが溜まってきて

嫌になって、怒りが湧いてきました。

 

「なんで私がこんなこと

やらなきゃならないのよ!」と思いました。

 

 

 

そうして「もう嫌だ!」と思うと

「ああ、私は自分を粗末に扱っていたのだ」

と気づき、反省します。

 

反省して、自分に謝って

「これからは自分を優先して大切にする。

もっと自分の気持ちに注目して

自分を愛する。」と誓います。

 

「自分の機嫌を取る。

自分が満足するようにサービスする。

自分の期待に応える。」と誓います。

 

 

 

 

 

いつも本当にそう思っているのです。

 

けれど、そう思い至っても

私は、しばらくすると

また同じことを繰り返していました。

 

 

 

人の期待に応え、疲れて、反省して

自分を大切にしようと誓い

「あれ?これ前も同じこと言ってる。

その時も『もっと自分を大切にして

自分を愛する』と言っていたのに。」

と気づきます。

 

 

 

その時も、気づいた時も、いつでも

私は、本当にそうしたい、そうしよう

と思っているのです。

 

 

 

なのに、それができない。

「自分を大切に」ができないのです。

 

でも、どうすればいいのかわからなくて

私は、このサイクルを

延々と繰り返していました。

 

 

 

 

 

そんな時、出会ったのが

「してあげたい依存」という言葉。

 

自分は、これではないかと思いました。

 

 

 

自己肯定感が低いと

人の評価に過敏になったり

人の顔色を伺ったりする。

 

自分に自信がないと

人の言いなりになったり

喜ばせようとする。

 

しっかりとした自分というものがないから

人に「してあげる」ことで

自分を保っているのです。

 

「してあげる」ことが

自分が存在するために必要。

というところの「してあげたい依存」です。

 

 

 

結局、いくら自分を大切にしよう

愛そうと思っても

自己肯定感が低く

自信がないままではできないのです。

 

自分を大切にしたくても

相手を大切にした方がいいような

気がしてきちゃうのです。

 

自分を肯定できないから

自信がないから

自分を優先して大切にできない。

自分を愛せない。

 

 

 

私は、自分の根っこの傷と

向き合わなければならない時が来た

と思いました。

 

そうしなければ

私の自己肯定感と自信は戻らない。

 

私の生きづらさの根本原因。

ラスボス。

 

 

 

自分の自信のなさ、自己肯定感の低さ

それがすべての問題の

原因のような気がしました。

 

そうして、ずっと克服できなかった

この問題に取り組み始めたのです。

 

 

 

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