心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

お金のブロック * 豊かさを受け取る

 

 

私は、3年前に今住んでいる

マンションを買いました。

 

 

 

始め、オープンルームを見に行った時

私は「ここいいな♪」と思いました。

でも、価格が予算よりも

1000万円以上もオーバーしてました。

 

途端に私は怖くなって

夫も「高すぎる」と難色を示していました。

 

 

 

予算オーバーのものを買って

無理してローンを組むと

将来苦しくなるのではないか。

いつかローンを払えなくなるかも。

子どもの学費を出せなくなるかも。

老後、困って路頭に迷うことになるかも。

 

と、不安と恐怖の妄想は

後から後から湧いてきました。

 

 

 

そのように「欲しいけど不安だな」

という気持ちでいると

誰に話しても「高すぎるよ!」

「将来困るからやめた方がいい」

と言われました。

 

それを聞いて、私も

「やっぱりそうだよね」などと

不安を上塗りして納得していました。

 

 

 

 

 

 

けれど、本当に手の届かないものだったら

悩みません。

それは始めから無理だと思えるからです。

 

「欲しいなぁ。でも不安だなぁ」と

悩むということは買うことができるからです。

 

私は、ふと

「目の前に現れたステキなマンションを

買えるのに、不安と恐怖から買わなかったら

自分はこの豊かさはいらないと

拒否したことになるのではないか?」

と思いました。

 

そして、「この不安と恐怖こそ

私のお金に対するブロックなのだ」

と思いました。

 

 

 

 

 

 

人は、今まで通り、いつも通りの

ランクのものを買う時は

抵抗なく買うことができます。

 

でも、いつもよりもワンランク上のものを

買おうとすると、不安や恐怖が湧いてきて

激しい抵抗を感じます。 

 

これがお金のブロックです。

 

 

 

その抵抗から、自分にはもったいないとか

後で困るのではないかとか

色々理由をつけて諦めます。

 

 

 

けれど、その恐怖をただ感じて

勇気を出して買ってみると

そのワンランク上の豊かさを受け取り

次からは普通に買えるようになります。

 

そのワンランク上が

自分の普通になるのです。

 

すると、ワンランク上のものが

自分に流れ込んでくるようになります。

そうして、人は豊かになっていきます。

 

その恐怖を乗り越える勇気を持つことと

ワンランク上の豊かさを

自分が受け取ることを許すことが

ポイントになります。

 

豊かになりたかったら

「贅沢」「もったいない」と言わないで

自分が豊かさを受け取ることを

許すことなのです。

 

それを受け取る価値が自分にあると

信じることなのです。

 

 

 

 

 

 

私は、自分に豊かさを受け取ることを

許そうと思いました。

 

「これは○千万円失うのではなく

快適で豊かな生活を得ることなのだ。

目の前に現れた豊かさを喜んで受け取って

喜んでお金を払って、喜んで

気に入った部屋で快適に過ごしていれば

いいのだ。自分はあの部屋にふさわしいのだ」

と思いました。

 

 

 

 

 

 

そうして、自分に豊かさを受け取ることを

許可すると、不思議なことが起こりました。

 

 

 

夫と相談して「あのマンション買おう♪」

と決めたら、それまで何年もずっと

売れなかった夫の実家の土地が

売れたのです。

 

その土地は、さまざまな条件があり

売れ辛くて、なかなか買い手がつかず

もう何年も放置されていて

私たちも諦めて半ば放っておいた土地でした。

 

その土地が売れたおかげで、マンションは

無理なく買えるようになりました。

 

 

 

「土地が売れたらマンションを買おう」

ではダメなのです。

そう思っている間は売れないのです。

 

「マンションを買う。手に入れる」

と決めたから、土地が売れたのです。

 

何の確証もないのに

先に「買う」と決めるのは勇気がいります。

だから、多くの人は

「先にお金が入ってから」と思います。

 

けれど、順番は逆なのです。

「自分はこうする」と決めることが先です。

 

 

 

これは、たぶん他のことでも同じです。

 

失敗しないと確証があったらやる。

自分は困らないと確証があったら

今の仕事を辞める。

幸せになれると確証があったら

離婚する。

 

などなど。

 

でも、なかなか確証は得られないから

今のところからは怖くて動けない

というのはよくあることでしょう。

 

この場合も、何の確証もなくても

「自分はどうするか」を先に決めると

未来は開けていくように思います。

 

 

 

 

 

話をマンションに戻します。

 

もうひとつおもしろいなと思ったのが

周りの人の反応です。

 

私が大きなお金を使うことに

不安と恐怖を感じていた時は、みんな

「高い!」だの「やめた方がいい」だの

否定的だったのに

私が「あのマンション買う。

豊かさを手に入れる」と決めたら

みんな口々に「いいなぁ」「羨ましい」

「良いところだよね」と言い出したのです。

(豊かさ云々の話はしていません)

 

「ほんとに同一人物⁉︎」と疑うくらい

みんな180度違うことを言うので

おもしろいなぁと思いました。

 

「本当に、周りの人って

自分の心の反映なんだなぁ!」と

実感した出来事でした。

 

 

 

 

 

 

そんな経緯のあったマンションに

私は今、住んでいます。

 

それは、想像以上に快適な毎日で

日々、心地よく、豊かさを感じ

ありがたいと感謝しながら暮らしています。

 

「お値段が手頃だから」と妥協して

それなりの部屋にしなくて

本当に良かったと思います。

 

私は、住んでいる部屋だけでなく

この毎日毎日の「ああ、幸せ♡」という

気持ちも手に入れたのです。

 

そう思えば、このマンションは

高くなかったのだと思いました。

お値段相応の価値があったのです。

 

だから、やっぱり

喜んでお支払いしようと思います。

 

「毎日とても快適だよ。

とても気分がいいよ。ありがとう」

という気持ちを込めて。

 

 

 

 

 

 

ちなみに、ローンはまだ

たんまりと残っています。

 

先のことはわかりませんが

困ったことにはならないと

私は信じています。

 

 

 

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そのままの自分でいるということ

 

 

自分のままでいられるというのは

なんて楽なのだろう!と思います。

 

 

 

「自分のままでいる」というのは

わかりやすく言うと

「我慢しない、無理しない、頑張らない

そのままの自分でいる」ということです。

 

「自分の苦手なところも

改善しようとせずにそのまま。

欠点もそのまま。未熟なところもそのまま」

ということです。

 

 

 

多くの人は、そんな自分の欠けているところ

足りないところがダメだと思い

それを埋めよう、改善しようと

日々、頑張っています。

 

そのままの自分はなかなか許せません。

 

 

 

自分はそのままでは愛されないから

愛される人になれるように自分を直そう。

自分には価値がないから

足りない価値を埋めるために頑張ろう。

自分はここで生きてる意味がないから

意味を持たせるために人の役に立とう。

自分は受け入れてもらえないから

人に喜ばれることをしよう。

 

こんなふうに思っていると

そのままの自分でいることなど

到底許せず、怖くてできないでしょう。

 

「周りの人が」というよりも

「自分が」許さないでしょう。

 

 

 

自分自身が自分のことを

価値がない、意味がない、愛されない

受け入れられない、と信じているからです。

 

これらは、多くは無意識の奥深くに

しっかりと根を張っている信念です。

自分のことをそんなふうに思っていると

気づいていない人も多いです。

 

気づいていなくても「価値がない」

という信念は確かに自分の中にあって

自分の行動のほとんどは

この信念から発動しています。

 

「価値がない」から

嫌な仕事でも我慢してやろうと思うし

人に喜ばれることをしようと思うし

しんどくても無理して頑張るし

やらなければならないことはやるし

モテようとするし

お金を稼ごうとするし

成功しようとするし

頑張って勉強するし

成果を上げようとします。

 

 

 

 

 

 

私も、このことに気づいた時

自分を振り返ってみると

自分の行動は、ほとんど

「成果を上げるため」「認められるため」

に行われていたとわかりました。

 

 

 

自分の喜びは二の次で、そんなことよりも

認められることの方が大事でした。

 

私は、足りない自分の価値を

埋めることに必死でした。

そのために生きていたし、生活の隅々まで

その信念は蔓延っていました。

 

私の生活のどこを切っても

「認められるため」「価値を埋めるため」

の匂いがぷんぷんします。

 

「自分の喜び、楽しみ」はごく僅かです。

 

 

 

行動する時に「それは何のためにするの?」

と自分に質問してみるとわかります。

 

大体「これやらないと非常識だと思われる」

「役割を果たさないといけないから」

「人に迷惑かかるから」

「できる人と思われたい」など

周りの人や世間からどう見られるか

を気にした理由が返ってきます。

 

それは、それをやらなければ

自分は周りの人や世間から

受け入れられないと思うからです。

 

自分を受け入れてほしい、認めてほしい

と思うから、その行動をします。

 

 

 

けれど、そうやって頑張っていても

私は、心底くつろいで幸せを感じることは

なかったように思います。

 

 

 

 

 

 

 

頑張っても頑張っても幸せになれないのを

ある時、「根本的に間違ってる!」

と気づきました。

 

その気づきは

まるで天地がひっくり返ったようでした。

 

 

 

何が根本的に間違っているのかというと

行動の動機が、すべてマイナスから

スタートしていることです。

 

「自分には価値がない。だから

それを補うために頑張る」というのは

「自分には価値がない」という

マイナスからスタートしています。

 

それは、「愛されない」でも同じです。

 

足りない自分、欠けている自分を

埋めるために行うことは

すべてマイナスからのスタートです。

 

 

 

マイナスからスタートしたことは発展しない

というのがこの世の法則です。

だから、足りない自分を補おうと

どんなに頑張っても

決して幸せにはなれないのです。

 

どんなに無理して、我慢して、頑張っても

自分が心から満たされて幸せになる

ということはありません。

 

それは、大金持ちの人や高学歴の人でも

自殺してしまうことがある

ということでもわかります。

 

お金や成果だけでは

人は満たされないのです。

 

 

 

 

 

 

 

では、どうすればいいのかというと

冒頭でお話した「自分のままでいる」

ということが大切になります。

 

 

 

足りないところを埋めようとしない。

ダメなところを直そうとしない。

未熟で、欠点や苦手がある

そのままの自分を「それでいい」と

許して、受け入れるのです。

 

「自分は自分のままで存在してていいよ。

できないこともいっぱいあるし

人に迷惑かけることもあるし

大した特技や才能もないし

この世の役に立ってない気がするけど

そのままで存在してていいよ」

と許してあげるのです。

 

「こんなにダメなのは自分くらいだ」

と思っていても、案外

人間はみんなそんなものです。

 

「欠点があるままでいてはいけない」

と思っても、欠点を完璧になくすことは

不可能なので(完璧な人間は存在しない)

どんな自分でもそれでいいのです。

 

自分がそのままでいることを許します。

 

 

 

そして、許されたそのままの自分で

やりたいと思いついたことを

やっていけばいいのだと思います。

 

そのままの自分が「やりたい」と思ったことは

自分の価値を高めるために

やろうとすることと違って

本当に自分が好きなこと、楽しいことです。

 

そうして生活していくと

満たされて、毎日は楽しくて

自分は幸せだと感じるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

私は、自分の価値を高める行動を

しなくていいというのは

なんて楽なんだろう!と思いました。

 

自分をちゃんと見せるために

何かを無理しなくていい。

頑張ったり、我慢しなくていい。

やりたくないことをやらなくていい。

やりたいことをやればいい。

 

なんて楽で、楽しいのだろう!

なんてのんびりとくつろげるのだろう!

 

自分のままでいるというのは

違う自分になろうとしないのは

何かを目指さなくていいというのは

 

なんて安心するのだろう!

 

私は、自分のままでいる感覚を

味わっていたいと思いました。

 

 

 

 

 

自分のままで

自分のペースで生きることに

誰かの許可は必要ありません。

 

誰か他の人に

許してもらう必要はありません。

 

自分が自分に

「そのままの自分でいていいよ」と

許してあげるだけなのです。

 

自分がそうするだけなのです。

 

 

 

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母への憎しみの変化

 

 

先日、遠方に住む私の母へ

80歳の傘寿祝いの品を送りました。

 

母の誕生日は何ヶ月も前なのですが

緊急事態宣言やコロナの影響で

デパートに行くことを控えていて

数ヶ月遅れのお祝いです。

 

 

 

 

 

私の人生において

母は完全に敵キャラで

私を傷つけたり、苦しめたり

私の人生をめちゃくちゃにした(と思う)

人でした。

 

私は母のことを殺したいほど憎んでいたし

「いつ死んでもいいのに」と

常に思っていました。

 

年老いて、少し気弱になったのか

ここ数年は私を攻撃しないようにしようと

心がけてる節もありましたが

「そんなことで許さない。

なかったことにはしない」と思っていました。

 

母は弱味を見せることはしませんが

「心細いと思ってるだろうな」と気づいても

私は知らんぷりを通して

「私から愛情をもらおうとしないでよ。

今の状況は自分のしたことが

自分に返ってるだけだからね。

それを充分に感じて、自分が何をしたのか

よく振り返ってね」と思っていました。

 

年老いて、心細くなって

誰かから優しくされたいと願っていると

わかっていても

(母はその素振りを絶対に見せませんが)

私は知らんぷりして疎遠にして

母にじわじわと復讐していたのでした。

 

必要最低限の関わりや

上辺だけの会話はしていましたが

私の真心からの優しさをあげるような

ことはしませんでした。

 

私は「ざまあみろ」と思ってました。

「苦しめばいい。そして

自分の行いを反省すればいい」

と思ってました。

 

そんなふうだから「いつ死んでもいいよ」

と本気で思っていたのです。

 

 

 

 

 

そんな母のための傘寿祝いです。

 

父の傘寿祝いも数年前にありましたが

私はお祝いの品をあげました。

その頃はコロナもなかったので

遅れることなく、普通にあげられました。

 

もちろん、私が父に傘寿祝いをあげたことを

母は知っています。

 

だから母は、自分の誕生日を過ぎても

傘寿祝いがもらえないので

「父はもらえたけど自分はもらえない」

と心の中で何か感じていたかもしれません。

 

もちろん、母は何も言ってきません。

 

 

 

 

 

 

その状況で、

ずっと母に冷たい態度をとっていたのに

別にそんなに嫌いな相手なら

あげなくてもいいのに

なぜか私には、母に傘寿祝いをあげない

という選択肢はありませんでした。

 

 

 

なぜ、私は母に傘寿祝いを贈るのだろうか?

 

 

 

母に褒められたいのだろうか?

母に、やるべきことはちゃんとやる、と

認められたいのだろうか?

母に優しくしたいのだろうか?

 

 

 

 

 

私は、私にとって敵だった母に

傘寿祝いを贈る以外の選択肢がないことを

不思議に思い、どうしてなのか

知りたくなりました。

 

 

 

品物はシルクのパジャマにしたのですが

それを選んでいる時、私は

「これなら心地良いだろう。

これなら着た時、幸せになれるだろう」

と思っていました。

 

そして、父にあげたのに母にはあげない

などという意地悪はしたくないと思いました。

そこまで痛めつけようとは思いませんでした。

 

でも「いつ死んでもいいのに」

と思っているくらいなのに矛盾しているな

と気づきました。

 

 

 

 

 

この矛盾を見つめてみると

私は、本当はもう母に優しくしたいのだ

と思い至りました。

 

 

 

私自身が酷く傷ついていた頃は

母を憎いと思い「嫌いだ。死んでいい」

と思っていました。

 

でも、今の私は、一旦母と切り離して

自分の生活を心地よく楽しくすることを

一番大切にしていて

それをずっとやり続けていたら

私自身が癒されて、毎日が楽しく

幸せになっていたのです。

 

自分が幸せだと感じているなら

もう母のことはどうでもいいのです。

 

そして、自分が幸せで

自分を愛し、満たされていると

誰かを憎み続けるということが

違和感があり過ぎてできなくなりました。

 

憎むよりも、優しくする、愛する方が

今の自分にはしっくりきます。

 

 

 

それでも、なんとなく今まで通り

憎む姿勢をとり続けなきゃ

と思っていたようですが

本音が行動に現れますので

「母のためにお祝いを贈る」ということは

やらずにいられなかったようです。

 

 

 

今まで何十年も憎み続けてきた人に

優しくするというのは抵抗があって

その抵抗はなかなかだったのですが

それもエゴだったのだなと思います。

 

私は、エゴの「自分が幸せになっても

それでも母を憎み続けるんだ!」

という思いを受け止めて

「もう憎まなくても大丈夫だよ。

そうやって母から愛をもらおうとしなくても

私はもう愛を持っているから大丈夫なんだよ」

と憎しみを手放すことにしました。

 

憎いから憎んでいるのではなく

最後の方は、憎まなくちゃ

と自分に言い聞かせて憎んでいる感じでした。

 

もう、その必要はなくなったのです。

もう、そのためにエネルギーを

使わなくていいのです。

 

 

 

これからは、母に対して

自分が感じるままに、やりたいように

接していこうと思います。

 

それは、思いやりや心遣いの時もあれば

言いたいことをはっきり言う

辛辣な時もあるでしょう。

 

 

 

もう、母が私を傷つけることはできません。

 

私は、自分の幸せに全責任を持ち

私のことは私が愛していくからです。

私の人生に母が介入することは

もうできないのです。

 

 

 

自分の幸せの責任を100%自分が持つと

人のことが気にならなくなります。

人がどうあろうと

自分の幸せとは関係ないからです。

 

 

 

母は、私の人生で出会った

ちょっと厄介な人という位置づけで

今までとは違う

関係性を結んでいこうと思います。

 

今、私はすっきりといい気分です。

 

 

 

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自分という人間を体験中

 

 

自分という人間は

エゴを抱えて

迷ってばかりで

煩悩まみれだ。

 

 

 

たぶん

煩悩からは

一生逃れられない。

 

 

 

だけど、悩みながら

毎日毎日

気づき、学び

成長していけるのは

楽しい。

 

 

 

迷いながら

精一杯、日常を生きる。

そうやって

生きている瞬間は楽しい。

 

 

 

迷いがないというのは

本当に自分が見えているだろうか?

偏りすぎていて危険なのではないか?

 

 

 

迷いがあるというのは

自分の闇を見逃さないということ。

 

 

 

ダメダメなままの自分で大丈夫。

善を目指さなくてOK。

 

 

 

自分は、何をやっていても

何を感じていても

それでいいのだ。

 

 

 

そのままでいいのだ。

 

 

 

そのままの

「自分」という経験を

味わおう。

 

 

 

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自己否定はエネルギーを消耗する

 

 

毒親育ち、アダルトチルドレン

自己否定の気持ちを持っている人が

多いかと思います。

 

 

 

自己否定しているから

自分を許すことなどできなくて

なかなか自分を大切にできません。

 

 

 

疲れた時にゆっくり休む。

自由に振る舞う。

好きなものを自分に買う。

できなくてもいいと自分に許可する。

自分を快適にする。

人に対してNOと言う。

自分の希望を叶える。

 

などは、できなかったりします。

 

 

 

自己否定しているというのは

365日24時間、自分が自分を

責め立て、罵っている状態です。

 

どんな時でも、何をしていても

自分は自分を見張っていて

僅かな行いでも、心持ちでも

反射的に否定しています。

 

自分の心の中に

自分のことを大嫌いな人が住んでいて

その人が常に自分を見張っているのです。

 

そして「おまえはダメな人間だ」

「サボるな。怠けるな」

「おまえなんかいらない」

「おまえには価値がない」などの

酷い言葉を投げつけてくるのです。

 

とても辛いことです。

 

 

 

 

 

自己否定は、それが意識に上がらず

自分で気づいてない人もいます。

 

まさか、自分がそんなに自分を嫌いで

そんなに自分を否定しているとは

知らない人も多いのです。

 

 

 

「なんだか何もかもめんどくさい」

と思うのなら、もしかしたら

自己否定しているかもしれません。

 

自己否定は、自分に大きなダメージを与え

エネルギーをごっそり奪われるから

心の元気がなくなって無気力になるのです。

 

誰かから否定されていたら

その人から離れれば否定から逃れられますが

自己否定は自分自身が否定しているので

どこにも逃げられず

エネルギーが常に奪われ続けるから

ダメージが大きいのです。

 

 

 

 

 

 

私も、いつも自分を責めて

自分の元気を奪っていました。

 

 

 

腰が重くて、何をするにも億劫で

「めんどくさいな」と思います。

 

掃除もめんどくさい

買い物もめんどくさい

なかなか動けない。

 

そうすると

テキパキと動けない自分はダメだと思う。

しんどいから休憩したり昼寝する自分は

寝てばかりいてダメだと思う。

 

ダラダラして

人生を楽しめない自分ダメだと思う。

楽しいこと見つけられない自分ダメだと思う。

イキイキと生きられない自分ダメだと思う。

専業主婦で仕事してない自分ダメだと思う。

 

と、こんな感じで

自己否定しているから動けないのに

その反応すらもダメだと言うのです。

 

 

 

たぶん私は

例え、自分が望み通りになっても

その時の自分の至らない点を見つけ

そのことを責めるでしょう。

 

だから、どんな自分になっても

何かしら理由を見つけて

自分を責めることはやめないのです。

 

責めることが目的だから

どんな自分でもダメなのです。

 

こんなふうに、毎日、否定、否定で

私は苦しんでいました。

 

 

 

 

 

 

でも、自分を否定しているから

自分のエネルギーが奪われているのだ、

だから何をするのも面倒に感じるのだ、

と気づいたら、そこから変わりました。

 

 

 

自分がこんなにしつこく自分を否定している

ということにびっくりしましたが

その一日中自分を否定している自分の声を

ちゃんと聴いてみました。

 

自分を否定するその声を

きちんと聴くところがスタート地点です。

 

 

 

どれだけ自分を否定しているか。

どれだけ自分を許せないのか。

 

その声を明確にすることによって

始めて、その声と向き合うことができます。

 

どうしてそんなふうに思うのかな?

何かメリットがあるのかな?

その声の言ってることは本当かな?

 

など、問いかけることができます。

 

そして、これからも自分を責め続けるのか

それとも自分を愛する方へ方向転換するのか

今この瞬間に、自分で選ぶことができます。

 

 

 

 

 

 

私は、自分を否定して

エネルギーを消耗するのが嫌だと思ったので

自己否定を手放すことにしました。

 

「もうがんばらなくていい。

私は今まで何十年も自己否定し続けて

動けなくなってしまった。

一日二日休んだからといって

元気を取り戻せなくて当たり前だ。

だから、今からの何十年は

しっかり休んで、好きなことをしていこう」

と思いました。

 

自分を愛せるようになろうと思いました。

 

 

 

 

 

自己否定は、自分のエネルギーを

最も消耗する行為なのです。

 

 

 

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人からの批判

 

 

毒親育ち、アダルトチルドレン

自己肯定感が低いから

人に親切にしたり

良い行いをしたりします。

 

そうすると、

「今、自分良いことした。

人の役に立ったんじゃないか?」

と、自己肯定感が上がって

いい気分になれるからです。

 

 

 

また、アダルトチルドレン

自己肯定感が低いから

人からの批判にはめっぽう弱いです。

 

人からの批判は

想像以上の打撃となります。

 

生きているのが辛くなるくらい。

死んだ方がいいのではないか?

と思うくらい。

 

 

 

 

 

 

 

私も、人からの批判はすごく怖くて

それをいかにして回避するか

ということだけのために生きていました。

 

批判さえされなければ

自分が我慢や無理をすることも

自分がありのまま自由でいられなくても

好きにできなくても、かまいませんでした。

 

人から批判さえされなければ。

 

 

 

ルールにこだわる規範意識の肥大化や

やらなければならないことだけを

やり続けることも

ルールを守っていれば

やらなければならないことをやっていれば

誰からも批判されないからです。

 

そうしていれば安全だからです。

 

 

 

批判を恐れている間は

「自分らしく」「ありのままの自分で」

「自由に」「好きなことを」「自分を表現」

などはご法度でした。

 

そうある時に批判されることが多いからです。

子どもの頃は主に母親から

大人になっても人の自由を許せない人から

批判されました。

 

 

 

 

 

人から批判されると

心が耐えがたい状況になりました。

 

「やっぱり自分はダメ人間だ」と落ち込み

地球上の全員から嫌われたような気がして

絶望的な気分になり

こんな嫌な気分にした批判した人に

怒りや怨みを感じました。

 

ほんの些細な批判でも

その批判を自分そのもの全部に当てはめて

この世の終わりくらいに思うので

捉え方がだいぶ偏っていたなと思います。

 

こんなふうに、いちいち絶望的になるので

人から批判されることは、私にとって

どうしても回避しなければならない

ことだったのです。

 

 

 

 

 

 

でも、批判を回避することだけに

人生を費やしていたら、ある時

本当の私が「いい加減にして!」

とブチギレたのです。

 

本当の私は

「苦しいよ。狭いよ。閉じ込めないで。

私は自由に、好きなことして

人生を楽しみたいよ!」と言いました。

 

 

 

その声を聞いて

私は自分を取り戻す旅に出たのです。

 

自分と向き合い続け

自分を深く知っていくにつれて

私の批判に対する異様な恐怖は

薄れていきました。

 

 

 

批判されると嫌な気持ちは

もちろんありましたが

それはこの世の終わりではなくて

「怖い」「悲しい」「反論したい」

「批判する人を言い負かしたい」

という感じです。

 

 

 

そんなふうに思っている自分の心を

見つめているうちに、私は

批判する人を猛烈に批判している自分に

気がつきました。

 

人のいたらないところを責め立て

批判する人に言いたい言葉は

「人の欠点や過ちは許した方が自分が楽だよ。

完璧な人なんていないんだから」です。

 

この言葉は、そっくりそのまま

自分への言葉となって返ってきました。

 

「そうか

批判している人はそのままでいいのか。

批判していていいのだ。

その人はそう思ったのだから」

 

 

 

ということは、私も

何も変えないでそのままでいいのです。

 

だって、それが私だし

私はそう思ったのだから。

 

 

 

 

 

人との境界線がはっきりして

人は人、自分は自分、ということが

腑に落ちると、人が批判しているのは

「その人がそう思っただけ」なのだと

思えるようになりました。

 

人の批判と自分の価値は

全く関係のないものだったのです。

 

どんなに悪く言われようが

それは「その人がそう思っただけ」。

事実でも真実でもありません。

 

ましてや、自分の価値が

その人の言う通りに

失墜するわけでもないのです。

 

自分の価値と人々の言うことは

全く別次元にあって、人々の言うことは

「人々がそう言った」

というだけのことなのです。

 

 

 

 

 

そのことに気づくと、批判されても

それを間に受けて

自分を傷つける必要などないのだと

思いました。

 

その人がその人の価値観の中で

そう思っただけなのですから。

その人が正解なわけではないのですから。

 

もし批判する人がいたら

「あなたはそう思うんだね。

私は私の価値観を生きていて

自分はそれでいいと思ってる」

と言いたいです。

 

 

 

 

 

完璧な人など、この世にひとりもいません。

みんな、何かしら欠点があって

何かしら過ちを犯しています。

 

それでいいのです。

すべての人はそのままでいいのです。

 

すべて、それはそうであるだけなのです。

 

 

 

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過去の元気のない自分へ

 

 

それでいいよ。

 

 

 

あってるよ。

 

 

 

大丈夫だから。

 

 

 

心配しないで。

 

 

 

どんな自分のことも責めないで。

 

自分が受け入れていれば

何してても

どんなんでもいい。

 

何をするかよりも

自分が自分を受け入れてるかが重要。

 

 

 

理想の自分じゃないことを責めないで。

活動的にできない自分を責めないで。

不甲斐ない自分を責めないで。

頑張れない自分を責めないで。

イキイキできない自分を責めないで。

元気のない自分を責めないで。

 

 

 

どんな自分のことも責めないで。

 

今の自分が悪いわけじゃなくて

悪いことをしたわけじゃなくて

ただ、今まで無理をしすぎただけ。

 

エネルギーがなくなって

元気がなくなっただけ。

 

 

 

 

やりたいことをやって

食べたいものを食べて

書きたいことを書いて

見たいものを見て

感じたいものを感じて

 

休みたいだけ休んで

 

自分をいたわって

エネルギーを溜めて

 

力が出てきたら

 

行きたい場所

会いたい人に

会いに行こう。

 

 

 

自分を取り戻せば

元気も取り戻せるから

大丈夫だよ。

 

 

 

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