心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

鳥のさえずり

先日、家にいた時

鳥のさえずりが聞こえてきました。

 

 

 

はじめ、それが鳥のさえずりと思えず

あまりの美しさに

何かの楽器の音色かと思い

ベランダに出て

もう一度、耳をすましてみました。

 

 

 

ピッ!ピッ!ピュルルルルルン!

ピッ!ピッ!ピュルルルルルン!

 

 

 

それは、やっぱり鳥のさえずりでした。

 

なんて伸びやかで澄んだ美しい声なのだろう。

鳥はなんと美しく鳴くのだろうか。

 

その響きは澄み渡って清らかです。

 

私は、していることの手を止め、じっと

外でさえずる鳥の声を聴いていました。

 

 

 

ピッ!ピッ!ピュルルルルルン!

ピッ!ピッ!ピュルルルルルン!

 

 

 

鳥のさえずりという美しい響きは

私に浸透して

その時、私は鳥と共にありました。

 

そして、その澄んだ響きを聴いていると

私の頭も心もすっきりと

洗われていくようでした。

 

心が癒されていくのを感じます。

 

 

 

自然は何の見返りも求めずに、無償で

こんな素敵なプレゼントをくれるんだなぁ

と、とてもありがたく思いました。

 

 

 

もし今度、鳥のさえずりが聞こえてきたら

その時していることの手を止めて

道を歩いていたら立ち止まって

全神経を集中して

その美しい響きを聴いてみませんか?

 

 

 

その時、自分の心は何を感じるでしょうか?

 

 

 

自分の感性を観察してみるのも楽しいですね。

 

 

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人の顔色が気になる人

アダルトチルドレン

人の顔色を気にする人が多いです。

 

人の気持ちを読み期待に応えようとします。

その人が喜んでくれるように。

その人の機嫌が悪くならないように。

その人に嫌われないように。

 

ここでいう「その人」とは

自分の目の前に現れる他者のことです。

 

これは、自分が子どもの頃から

親に対してしてきたことと同じ。

今でも他者に対して繰り返しているのです。

「他者=親」です。

 

子どもの頃は親に嫌われるのが怖いものです。

子どもにとって

それは死を意味するので当然です。

 

でも、大人になったら

親に嫌われても死なないのです。

そのことに気づくと

少し気持ちが楽になります。

 

 

 

人の期待に応え続けるのはしんどいこと。

毎日生きていて、妙に腹が立ったり

息切れするような感覚があるなら

「自分が人の期待に応えようとする在り方」

を卒業する時かもしれません。

 

 

*〜〜〜*〜〜〜*〜〜〜*

 

 

人の顔色が気になるというのは

自分のアンテナが周囲に分散されている状態。

気にかけているのは、いつも人のことです。

アンテナを「エネルギー」「意識」

と言い換えてもいいかもしれません。

 

自分の在り方を変えるために

この分散してしまっているアンテナを

自分の中心に戻すのがやることです。

 

アンテナを自分の中心に戻すには

今まで人に対してやってきたことを

同じように自分に対してするのです。

 

人の気持ちを考える ✖️

自分の気持ちを考える ○

 

人のために ✖️

自分のために ○

 

というように。

 

いつも自分の気持ちを気遣い

今、快なのか、不快なのか

気づいていることが大事です。

 

そして不快なことはしない。

自分の快を増やしていく。

 

今まで人の機嫌を一生懸命取っていたのを

同じだけ一生懸命

自分の機嫌を取ることに変えるのです。

 

人のために使っていた時間やエネルギーを

自分のために使っていきます。

 

 

 

世界の中心を自分にして

自分中心で生きていくのです。

 

自分中心に生活して

「自分の気持ちを一番大切にする」

ということを実践すると

不思議と、嫌な人は遠ざかり

自分にとって必要な人だけが周りに残ります。

 

 

 

それでも、自分を大切にしようとすると

もしかして周りに

抵抗を示す人もいるかもしれません。

 

でも本来

人の期待には応える義務はありません。

自分の欲望は自分で叶える。

自分の機嫌は自分で取る。

責任はすべて自分自身にあるのです。

 

 

 

自分中心にするのは

慣れないと怖いと感じるかもしれません。

 

それでも

人に喜んでもらおうとすることはやめて

全エネルギーを自分を喜ばすことに

使ってみてください。

自分の心地よさを選ぶことに

集中してみてください。

 

 

 

自分を取り巻く世界が整い

日常の中に嬉しい変化が起こってきます。

 

 

 

※ どうしても人の顔色が気になるというのなら

なぜそう思うのか、自分自身と向き合い

自己対話することも必要かもしれません。

 

 

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自分を観察する

例えば、眠れない夜。

 

布団の中で「ああ、眠れない」と焦りだし

「早く寝なくちゃ」とさらに焦ります。

 

そんな時は体が緊張していて

呼吸も浅くなっています。

 

そのことに気づき

「あ!体が固くなってる。緩めよう」

「呼吸が浅くなってる。もっと深くしよう」

と意識すると、返ってなかなか緊張が取れず

眠れないことが多いです。

(時には功を奏して眠れることもありますが)

 

 

 

実はこういう時は

より良くしようとがんばらないで

諦めた方がいいのです。

 

「今はそうなんだなー」と

ただ思うだけでいいのです。

 

「緩めよう」「もっと呼吸を深くしよう」

というのは

今起こっていることにバツをつけて

改善しようということ。

つまり、今起こっていることに対する

否定なのです。

 

そこには緊張が宿ります。

だから眠れないのです。

 

 

そうではなく、

体が固くなっていると気づいたら

「体が固くなっている。

そうか。そうなんだねー」

 

呼吸が浅いと気づいたら

「呼吸が浅くなっている。

今、呼吸は浅いんだね。そうなんだー」

と思うだけでいいのです。

 

それは、自分をきちんと見ていて

わかっている、という深い愛です。

だからホッとして緩んでくるのです。

 

緩ませよう!と自分を変えようとしたり

緩んでないとダメなのにと

自分にバツをつけると

自分はますます緊張していきます。

 

 

*〜〜〜*〜〜〜*〜〜〜*

 

 

日頃から、自分を観察する癖をつけると

いいかもしれませんね。

 

自分の体の状態を頭から爪先まで

ひとつひとつ観察していく。

頭がモヤっとするな

目の奥が重い感じがする

顎に力が入っている、という感じに。

 

自分の心の状態も観察してみる。

私の心の中には今何があるかな

何か重苦しいな、嫌な感じだな

疲れているな、不安があるな

今このことを考えてたな、という感じ。

 

その体の状態、心の状態に気づいて

認識するだけで充分です。

 

それが良いとか悪いとかの判断はしないで

その状態が嫌だからと改善しようとしないで

ただ観察しているだけです。

 

実況中継のように

「今こうなってます。以上」です。

そのあとに続けたくなる

「こんなんじゃダメなのに」

「もっとこうした方がいい」

などの思考は緊張の元なので

観察のみに徹するのがコツです。

 

 

 

こうして自分をただ観察するのは

今起こっていることを受け入れることで

自分もそのまま受け入れることになり

自分を愛することにつながっていきます。

 

だから、そうしていると

自分がどんどんホッとして

緩んでくるのです。

 

 

とても心地のいい状態です。

 

 

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親の期待

私は毒親育ちのアダルトチルドレンです。

子どもの頃、自分のことを

母に否定されるのがとても悲しかったです。

 

でも、それと同じか、それ以上に

私は母の期待に応えられないことが

悲しかったのです。

どんなにがんばっても

母を喜ばすことのできない自分が

悲しかったのです。

 

母の期待に応えたかった。

そして私を認めて、愛してほしかった。

でも、私の力では

母の期待には応えられませんでした。

 

 

 

こうして私は

自分のことをダメな人間だと思い込み

劣等感や自己否定に苦しむことになりました。

 

 

*〜〜〜*〜〜〜*〜〜〜*

 

 

大人になって思うことは

母の期待が現実味のない

ハードルの高いものだったということ。

私という人間の個性を全く無視して

無理な要求をしていたこと。

そもそも、人の期待に応える義務など

誰にもないこと。

 

今は、まったくおかしな話だなと思います。

 

 

 

そう、母の期待には

応えなくてよかったのです。

 

母が「こうなって欲しい」と

私に期待したとしても、それは

「母がそう思った」というだけのことです。

 

その思いは母のもので

母が対処すべき問題で

私には関係のないことです。

私が母の願いを

叶えなければいけないわけじゃない。

私は私のままでいていいのです。

 

こんなふうに、自分と親の間に線を引き

すき間をあける考え方をしました。

 

そして

「私はお母さんの期待に応えなくていい」

と自分に言い聞かせました。

 

そうすれば、心理的に取り込まれず

これ以上傷つけられることはありません。

 

 

 

限りある人生の時間

人の期待に応えてるヒマなどないのです。

そんなことより

どうすれば自分が楽しいか、喜ぶか

心地いいかの方がよっぽど大切。

そう思います。

 

 

 

 

親の期待に応え続けて苦しい方

親の期待に応えられず苦しい方

 

そろそろ「親の期待」と「自分」を

切り離してみませんか?

 

その期待、応えなくていいのです。

 

 

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きちんと感じる

今日は感情について書きます。

 

例えば、人に対して

怒りが湧く出来事があったとします。

 

でも、その相手がすごく大変そうな人だったり

子どもだったり、障害があったりすると

相手の事情を思って「しょうがない」と

怒りを引っ込めてしまう時ありませんか?

 

確かに、怒っても仕方ないかもしれないし

相手にはそうする事情があるし

こちらとしては

それはそのまま受け入れるしかない

という時。

 

こんな時「ものわかりのいい良い人」になって

そのまま相手の事情を受け入れ

終わりにするのは「ちょっと待った!」です。

 

 

 

自分が一瞬感じた怒りを

なかったことにしないでください。

 

相手の事情がどうであろうと

一瞬感じた自分の怒りは

確かに存在しているのです。

 

その怒りをちゃんと感じて

肯定してあげることが大切です。

一番大事なのは

人の事情よりも自分の感情なのです。

 

 

 

これは、相手に怒りをぶつけましょう

ということではありません。

(場合によっては気持ちを話してみても

いいかもしれません)

 

「私は怒っている。腹が立っている」と

怒りを自覚してしっかり怒ることです。

 

紙に言いたいことを書き殴ったり

誰もいないところで

声に出して言ったりするといいですね。

気の済むまでやり切るのがコツです。

 

こうして怒りをしっかり感じる前に

「いい人」になってしまうと

怒りは行き場をなくし

自分の中に溜まり続けます。

 

そして、それは毒素となり

自分の調子が悪くなってしまうのです。

それは体にも心にも悪影響を与えます。

 

 

*〜〜〜*〜〜〜*〜〜〜*

 

 

実は、私はよくこれをやっていました。

 

私には子どもがふたりいますが

ふたり共に発達障害があります。

なので、私は子どもの良き支援者になろう

子どもの代弁者、理解者になろうと

日々奮闘していました。

 

でも、子どもは思い通りにならないし

特にコミュニケーションの苦手な子の方は

奇想天外なことをするので

毎日振り回されてヘトヘトでした。

 

それでも私は「この子を理解しなくちゃ」

「この子が悪いんじゃない」と

良い母親になろうと頑張っていました。

 

 

 

でも、本当はこう思っていたのです。

「もういい加減にしてよ!うんざり!

あんたの面倒なんか見たくない!」

 

私の心は悲鳴をあげていました。

 

 

 

そこで、心の中にあるものを

全部紙に書き出してみたのです。

すると、私は理解ある母親を演じながら

本当は子どもに対して怒りが湧いている

ということに気づきました。

 

でも、母親が障害のある我が子に

怒りを感じるなんて許されないと

自分で受け入れられずにいたのです。

 

ないことにしようとしたけれども

心が悲鳴をあげて、そうできませんでした。

 

紙に洗いざらい吐き出してみると

「ああ、私は怒っていたんだな。

思い通りにならないことに

腹が立っていたんだ」とよくわかりました。

 

でも不思議なことに

自分の怒りを認めてしまうと、子どもに対して

優しい気持ちを取り戻せるのでした。

 

 

 

このことで、どんな些細な怒りでも

怒りづらい人に対する怒りでも

ないことにしないで、きちんと感じるって

大事なんだなと思ったのです。

 

きちんと感じると

感情は必ず流れていきます。

すると、相手ともいい関係を維持できるし

なにより、自分が楽になります。

 

 

 

些細な感情でもきちんと感じる。

このひと手間が

自分の心身の健康には大切なのです。

 

 

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アダルトチルドレンと依存

アダルトチルドレンは、依存とは

切っても切れない関係にあります。

 

アダルトチルドレンは、育つ過程で

「真の自己」を確立する機会を奪われました。

自分の命を握っている養育者(多くは母親)に

嫌われたら生きていけないので

嫌われないように、必死に養育者の機嫌を

取らなければなりません。

(情緒の安定した親の場合、子どもは

自分の命の心配をせずに済みます)

 

その時に「真の自己」は邪魔になるので

どこかへ押しやってしまって

ただひたすら親の望みのためだけに

生きてきました。

生きるか死ぬかなので「真の自己」

なんて言っていられなかったのです。

 

その生き方で生きてきたので

アダルトチルドレン

自分の欲望を持つことは苦手です。

 

だから、アダルトチルドレン

自分のために生きられない

空虚さを抱えています。

この空虚感が辛いのです。

耐えられない、感じたくないのです。

 

この空虚を埋めるために

アダルトチルドレンは何かに依存します。

それは、ありとあらゆるものに。

 

 

 

 

 

アルコールや薬物の酩酊は

本当の自分を取り戻せた気分になるので

入り込みやすいそうです。

 

誰かに必要とされるのも

自分の存在価値を感じられるので

熱中しやすいです。(=共依存

看護師、ケアワーカー、カウンセラーなど

人を支援する仕事には

アダルトチルドレンが多いと言われています。

人に必要とされることが必要な人です。

 

私もすぐに人の役に立とうとするので

気持ちがよくわかります。

自分が役に立ったり、感謝されたりすると

自分が承認されたように感じて

ホッとするのです。

 

でも人のために生きているうちは

アダルトチルドレンの生き残りとは言えず

それは、がっつり共依存ということ。

人の役に立たなくても「私はこれでいい」

と思え、自分の楽しみのために生きられたら

その時やっと、アダルトチルドレン

克服したと言えるのだと思います。

 

 

 

 

依存に話を戻しますと

アダルトチルドレンはハマりやすい

ということもあります。

 

宗教、占い、スピリチュアル

特定のリーダー、など

何かに傾倒しやすいと思います。

 

自分がないから、自分のことを

自分で判断しないで

人の言うことを信じるのです。

 

アダルトチルドレンは自分を信じていません。

私にも覚えがありますが

自分は間違える、自分には力はない

と思い込んでいるのです。

 

 

 

 

 

私も今まで生きてきて、様々なものに依存して

ある意味助けられて、ここまで来ました。

 

若い頃は、すぐに誰かを好きになったり

アイドルにハマったりしていました。

私を満たして救ってもらいたかったのです。

 

また、小さい頃から甘いものが好きで

疲れると甘いもの、嫌なことがあると甘いもの

という感じで、日常的に食べていました。

甘えが足りないと甘いもの好きになると

聞いたことがありますが

自分の中の足りない愛を手っ取り早く

甘いもので補っていたのだと思います。

 

チョコレートやポテトチップは

ソフトドラックと言われていますね。

ガツンと脳が喜び、依存性があるからです。

 

 

読書も、私は一種の嗜癖だと思っています。

とても豊かなものではあるけれども

私は本を読んでる間は、常に受け身に

与えられたものを受け取っていればよく

自分で能動的に行動を起こさなくていい

とても居心地の良いものでした。

 

大海原にひとり漕ぎ出さなくていい

作者と共にいられる読書の時間は

私にとって依存だったと思います。

 

 

 

 

こうして、いろいろなもので、その時その時

満たしてきて、今があります。

それは、その場しのぎの見せかけの満足です。

だから根本的な解決にはなりませんが

それでも「だから耐えられた」と

言えるかもしれません。

私は「依存することは悪い」と

一面的な見方はしていません。

 

 

*〜〜〜*〜〜〜*〜〜〜*

 

 

でもこうして、誰かに救ってもらおう

何かに満たしてもらおう、と受け身でいる間は

自分は決して満たされません。

 

自分が自分のことをきちんと考えて

助けていくことが必要です。

 

自分の感情を取り戻し

自分の欲望を取り戻し

わがままも言う、怒ったり泣いたりもする

生身の人間になるのです。

 

そして、自分を大切にして

自分の言い分をちゃんと聞いてあげて

自分で自分を抱きしめられたら

自分はだんだんと満たされていきます。

 

 

 

また、何かひとつにのめり込むのではなく

たくさんのものに依存している人が

自立している人だとも言われます。

 

信頼できる人が何人かいて

楽しめるものが複数ある、というふうに

たくさんのものに

ふんわりと繋がれたらいいですね。

 

ちなみに、私は今でも読書を楽しみ

たまに甘いものを食べています♪

 

 

※ 依存症は病気なので

医療機関の受診をお勧めします。

 

 

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豊かさを感じる

今日は暖かく、春だなぁという陽気。

気持ちよさそうなのでお散歩に行きました。

 

道中、あちこちの桜が咲き始めていて

季節が巡っていることを感じます。

 

 

近所の川辺へ行きました。

川の両側の土手の間は

水害に備えて広く取ってあって

ちょっとした広場のようになってます。

川まで降りると広々と視界が開け

とても爽快で、気持ちがいいです。

 

その景色を眺めながら

しばらく川に沿って歩いていると

ぽつんとベンチをありました。

 

私はそこに座って

ゆっくりと川を眺めることにしました。

 

カモがたくさん並んで泳いでいます。

あっち行ったり、こっち行ったり。

でもどこかへ行ってしまうのではなく

そのあたりをずっとウロウロ。

 

そんな中、シラサギが一羽。

川の真ん中で、微動だにせず

突っ立っています。

周りはカモがウロウロしているのに

じっと動かないシラサギ。

このシラサギは一体何を考えているのか。

 

そんなことを思うと面白く

おかしくなりました。

 

 

 

 

こんななんでもない時間が

私の好きな時間です。

 

なんの生産性もないけれども

ぼんやりと

誰にも急かされず

自分の好きなだけ

自由にそうしていられる。

 

それは、私にとって

心の澄んだ心地いい時間です。

 

 

 

そして、カモも、シラサギも

川の流れも、水の音も、マイナスイオン

薄曇りの柔らかな日の光も

優しく頬を撫でる風も

美しい景色も、新鮮な空気も

心地いい時間も

 

今、私はこんなにたくさんのものを

受け取っているのだと思いました。

 

私は、いつでも

たくさんのものを贈られているのです。

 

これは世界からのプレゼントだなぁ

と嬉しくなりました。

 

 

 

 

周りを見渡せば、私は

与えられたものばかりに囲まれています。

 

蛇口をひねれば清潔な水

安全な整備された街

ノートも、ペンも

私が創り出したものじゃない。

全部、誰かが創ってくれた。

全部、誰かが届けてくれた。

 

当たり前のように

いつもそこにあるもの。

それは「当たり前」じゃなくて

「ありがたいもの」。

 

その「ありがたいもの」に

囲まれているのが私なのです。

 

 

 

その豊かさを感じる感性を

いつも忘れないでいようと思います。

 

 

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(桜が咲き始めましたね♡)