心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

自分に合うもの合わないものを調べる

 

 

昨日、ちらっと書きましたが

私は3か月前に

食生活をガラリと変えました。

 

 

 

私は、健康に自信がなくて

自分の食べているものにも

日頃から疑問を持っていました。

 

ここ数年、以前は大好物だったのに

食べられなくなってしまったというものが

徐々に増えてきていました。

 

 

 

真っ先に食べられなくなったのは

コンビニやスーパーのお弁当やお惣菜。

飲み込もうとするとウッとなって

「ああ、無理」となりました。

 

次にコーヒー。

以前は毎日飲まないとダメってくらい

好きだったのですが、ウッとなります。

香りは今でも大好きなのですが…

 

コーヒーが飲めなくなったので、それからは

もっぱら紅茶を飲んでいたのですが

その紅茶も、ある時からウッとなり

飲めなくなりました。

 

それから、チェーン店の餃子

しゅうまい、豚まんなど

以前はおいしいおいしいと食べていたのに

食べられなくなりました。

 

これらは、口の中で粘膜にへばりつく

脂の感じが気持ち悪くて

無理になりました。

 

 

 

食べられなくなったものは全部

自分の体が受け付けないという感じでした。

 

その、体が拒否しているものを

取った時の気持ち悪さが嫌で

私は自分に合ったものを食べたい

と思うようになりました。

 

 

 

自分がおいしいと思ったものを

食べればいいのではないかと思ったのですが

本当にそうだろうか?と疑問だったので

キネシオロジーのセッションをお願いして

調べてもらうことにしました。

 

 

 

 

 

 

キネシオロジーとは

自分の潜在意識の声を聞く方法で

自分に合うもの合わないものがわかります。

 

(人間にはエネルギーの流れがあって

そのエネルギーの流れが、心や体

潜在意識と繋がって影響を受けていて

流れが滞っている時がある。

キネシオロジーとは

それを筋肉の反射を使って調べて

心や体、潜在意識の声を聞くテクニックです)

 

 

 

セッションでお願いすると

お値段もけっこうかかりますが

自分で調べられる簡単な方法があります。

 

キネシオロジーとは違うのかもしれませんが

(同じなのかもしれません)

以前から自分で使うことがあって

今回合う食品を調べる時やってみたら

7割以上はキネシオロジーと一致してました。

 

 

 

それは、とても簡単で

調べたいものを手に持って

リラックスして深呼吸してみるだけです。

 

その呼吸の感じがどんな感じかで

その持っているものが

自分に合っているかがわかります。

 

自分に合っている時は、呼吸は

何の引っかかりも感じず

気持ちよく、深くできます。

一言で言うと「いい感じ」です。

 

自分に合ってない時は

なんか息苦しく、引っかかりがあったり

最後まで吸えなかったり、詰まって感じたり

胸のあたりが重く感じられたり

一言で言うと「やな感じ」です。

 

 

 

リラックスしてなかったり、慣れてないと

よくわからないということがあると思います。

 

そういう時は、明らかにダメなもの

(タバコ、白砂糖など)と

絶対大丈夫そうなもの(水、塩など)を

比較して、呼吸の違いを掴んでいくと

いいと思います。

 

この方法は、食品だけでなく

化粧品、シャンプー、歯磨き粉

洋服、リネン類などにも使えるので

わかるようになると本当に便利です。

 

 

 

今回、この方法で、まず自分で調べてみて

そのあと答え合わせのように

専門の方に見ていただきました。

 

7割の一致というのは

微妙な割合だなぁと感じるでしょうが

私の中では「絶対ダメ」と「絶対大丈夫」が

ほとんど合っていたので

「おお〜、自分でやるのも信用できるぞ!」

と手応えを感じたのでした。

 

 

 

外したものは、今思えば

「これだけは大丈夫であって欲しい!!」

と願うもので(白米、小麦粉など)

エゴが大丈夫寄りに判定していたようです。

 

落ち着いて公平な心でないと

こうやって欲が判定をぼやかすのです。

判定は正直わからず、△としていました。

 

自分では全部普通にやってみたつもりですが

こんなふうに欲が作用して

正解がわからなくなっているなんて

人間っておもしろいなと思いました。

 

 

 

これは、このことに限らず

普段の問題解決の時も同じですね。

 

執着や欲があると、ものごとを落ち着いて

公平に見ることができなくて

正しい答えを見つけることができません。

 

だから、困った問題を解決したいなら

自分の欲や執着、波立つ感情を

いったん横に置いて冷静になることなのです。

 

それができて心が落ち着いた時に

いいアイデアが浮かんでくるでしょう。

 

 

 

 

 

そんなこんなで

キネシオロジーのセッションを受けたら

衝撃的な結果となりました。

 

 

 

【合わない食品】

白米、小麦、大豆、白砂糖、もち米

コーヒー、紅茶、ごま油、牛肉、豚肉

乳製品、葉物野菜やイチゴ(無農薬ならOK)

 

【合う食品】

玄米(一日一膳まで)、コーン、そば

大麦、芋、野菜全般、卵、鶏肉、塩

甜菜糖、ココナッツミルク、モリンガ茶

アーモンドミルク、デカフェ紅茶

 

【注意する食品】

こめ油、オリーブオイル(少量ならOK)

 

 

 

私は、この結果に打ちひしがれました。

まず思ったこと。

「私はどうやって生きていけばいいの⁉︎」

 

白米、大豆がダメな時点で

白いごはん、味噌汁、納豆という

ホッとする和食が食べられない!

 

小麦粉がダメな時点で

パン、パスタ、うどん、粉もの、お菓子

などのおいしいものが食べられない!

 

砂糖がダメだと

大好きなスイーツが食べられない!

 

というか、それまで食べていたもの

ほとんど全滅でした。

ほとんど食べられないのです。

 

 

 

アレルギーとは違うので

厳密には食べられないわけではなく

食べたからといって

死んでしまうわけではありません。

 

ただ、体に合わないものなので

消化吸収するのに負担がかかって

疲れたり、眠くなったり、湿疹が出たり

なんとなく体調が悪くなります。

 

 

 

私は、体調が不安定なのが嫌で

だから自分に合わないものは

食べたくないと調べたのです。

 

でも、いざこの結果を突きつけられると

「まじか〜」と絶望したのでした。

 

 

 

このお話、また続きます。

 

 

 

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しんどい時は休む

 

 

最近、食べるものを変えたせいか

頭痛になることが少なくなりましたが

以前はよく頭痛がしていました。

 

 

 

気圧が下がると頭痛

暑くても頭痛、寒くても頭痛

冷たい風に当たっても頭痛

満月付近は頭痛、疲れると頭痛

睡眠不足でも頭痛、胃が悪くなると頭痛

目を使いすぎて頭痛、と

何かと言っては頭痛がしていました。

 

 

 

頭痛がすると、私は頭痛薬を飲んで

いつも通りのやらなければならないことを

こなしていました。

 

ご飯作ったり、片付けたり、家事全般

子ども絡みの雑務、など。

 

 

 

 

 

ある時、頭痛がしたので、また薬を飲んで

いつも通り動こうとしました。

 

 

 

でも、その時

「ちょっと待って」と思ったのです。

 

頭痛がするってことは

私、今しんどいんだよね?

それなのに、体のメッセージを無視して

いつも通り働かせるって

自分を酷使する横暴な行為じゃない?

 

 

 

それまで、私はずっと自分の声を無視して

エゴの奴隷となって

自分に無理をさせてきました。

 

自分が「疲れたよ。しんどいよ」と言っても

私は(エゴは)「休むな。働け」と

無理することを要求してきたのです。

 

そうして、疲れても、しんどくても

「でも休めない」と私は動き続けました。

 

 

 

怖くて、自分に

休むことを許可できなかったのです。

「休んだりしたら、人の役に立てない。

自分の価値がなくなっちゃう。

ただのお荷物になっちゃう」

と怖かったのです。

 

自己肯定感や自尊心が低いと

自分が休んだり、楽をしたり

心地いい思いをすることに抵抗があります。

 

怠けているんじゃないか

自分は楽しちゃいけないんじゃないか

と思ってしまうのです。

 

こんな自分が楽しちゃいけない。

みんなの役に立たなきゃいけない。

そんな思いです。

 

「こんな自分」ってなんでしょう?

「低く見積もってるダメな自分」

ということでしょうが

それも全部妄想なのですよね。

 

 

 

自己肯定感や自尊心が育ってくると

はたと「え、休んでよくない?」

と気づく時がきます。

 

 

 

ずっと自分の声を無視して

無理しすぎて、私は悲鳴をあげていました。

 

この悲鳴を、もう無視してはダメだと思い

私は自分にいっぱい「ごめんね」と謝って

「ねばならない」を放り投げ

自分がどうしたいのかを考えました。

 

 

 

私は、体を横にして休んだり

お風呂で温まったり

目を瞑って静かなピアノ曲を聴いたり

心も体も、緩めたいと思いました。

 

薬を飲んで頑張るのではなく

ゆったりと緩めたいと思いました。

 

 

 

私は、自分の頭に、心に、体に

「ごめんなさい」をいっぱい言いました。

 

そして、その日のご飯は作らないことにして

すべての用事から自分を解放して

のんびり横になって

ゆったりと過ごすことにしました。

 

肩の荷が降りたような、ホッとした

とてもいい気分でした。

 

 

 

そうしていたら、いつの間にか

頭痛はなくなっていました。

 

 

 

 

 

 

アダルトチルドレン

自己肯定感が低いので

どうしても自分に厳しくなりがちです。

 

「こんなんじゃダメだ。もっと頑張らなきゃ」

と思いがちです。

 

 

 

でも、微かに聞こえる自分の悲鳴を

聞き逃さず、自分を休ませたり

緩ませてあげられるといいですね。

 

仕事など、自分がやらなきゃ!と思っていても

それも妄想で、案外なんとかなるものです。

 

 

 

自分に優しくしてもらえるのを

自分は待っています。

 

 

 

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できない理由が必ずある

 

 

私は、以前は自己否定がすごくて

いつも、何をしていても

自分のことを責めていました。

 

 

 

人からわかりやすい才能がないことや

誰からも認められるような働きをしてないこと

グズグズと不安定な体調などを

許せなくて責めていました。

 

 

 

そうして

思ったように動けない自分を責めていて

自分を責めながら無理に動くので

余計に疲れて、もっと辛くなりました。

 

そんなふうに、無理に無理を重ねていました。

 

 

 

 

 

でも、今の自分をダメだと思って

無理に動いても、うまくいかないし

自分は全然元気になれません。

 

 

 

私は、立ち止まって

自分を責めている自分を

見つめてみることにしました。

 

 

 

 

 

体調の悪さについて。

 

そもそも、月の満ち欠けや

真冬、真夏、梅雨時、季節の変わり目など

環境によって体が動かなかったり

体調が不安定になるのは

生き物として当然なことです。

 

人間も自然の一部。

繊細な人は自然の影響を受けやすく

気圧、湿度、温度、月の満ち欠けなど

季節によって体調も変動します。

 

頑丈な作りの体の人には

理解してもらえませんが

自然の影響を受けまくってしまう

繊細な人も世の中にはいるのです。

 

それは、本人の怠けや不摂生ではなく

持って生まれた体質なので仕方ないのです。

 

そういう繊細な体質に生まれついたら

いつも元気でいられない自分を責めないで

自然の変化を受け入れ

それに合わせて養生しながら

自分の体を慈しんであげたいです。

 

 

そして、眠くて眠くて仕方ないのは

当時飲んでいたアレルギー薬の影響が

考えられました。

 

それも自分ではどうすることもできません。

 

 

そして、めんどくさいと思うのは

エネルギー不足の証拠で

エネルギーがなくなるのは

私が自分を責めているからなのです。

 

 

 

なぜ責めるのかというと

元気いっぱいの活動的な人と

自分を比べているからです。

 

私の中に「人は活動的であるべき」

という観念があるのでした。

 

だから、自分も活動的であろうとする。

でも、現実は理想通り動けない自分。

そんな自分を許せなくて

「怠けている!」と責めるのです。

 

 

 

けれど、これも、繊細な体質、頑丈な体質と

人それぞれあったように

活動量も人によって違うのです。

 

活動していないと具合悪くなる人もいれば

活動しすぎると疲れてしまう人もいます。

 

人にはそれぞれ、ちょうどいい活動量

快適な活動量、というのがあります。

 

だったら私も、自分がちょうどいい

快適なだけ活動すればいいのではないか

と思いました。

 

例え、その活動量が少なくても

自分が快適ならそれでいいのです。

 

人にはそれぞれ

その人独自のリズムがあります。

「私のリズムはこれ」と受け入れて

そのリズムで生きていけば

無理なく快適に過ごせるでしょう。

 

 

 

ちなみに、このリズムや体力などは

生まれる時に

その人に与えられたものだそうです。

 

そのままのリズム、そのままの体力で

周りと調和できるようになっています。

 

だから、やっぱり

そのままの自分でいいのです。

 

 

 

 

 

 

どんなことにも、そうなる理由があります。

できない理由があるのです。

 

だから、こうして自分を弁護しまくって

もうこれ以上

自分を責めるのはやめようと思いました。

 

「そっか、しょうがないよ。それでいいよ」と

優しく受け入れてあげようと思いました。

 

 

 

 

 

 

そうして、自分を許してあげたら

「自分が一番辛いのは

自分にわかってもらえないことだ。

自分から責められることだ」

ということがわかりました。

 

 

 

私は、自分に受け入れてもらえないことが

とても辛かったのです。

だから、わかってあげて

受け入れてあげると、とても喜びました。

 

それだけで

人のことは気にならなくなりました。

 

 

 

 

自分が自分を受け入れていれば

何してても、どんなんでもいいのです。

 

何をするか、じゃなくて

自分が自分を受け入れているか、が

最重要なことなのだと思いました。

 

 

 

だから、やっぱり

自分との関係がすべてなのです。

 

 

 

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隠していた本音

 

 

毒親育ちでアダルトチルドレンの私は

母親のことが大嫌いでした。

 

 

私を傷つけて人生を生きづらいものにした

と、恨んでいました。

 

 

 

 

 

 

そんなある日、夜ベットの中で

そろそろ眠りに落ちるなぁ〜という頃

微かな声が聞こえてきました。

 

本当に小さな消えそうな声です。

それは、自分の脳か、心か

どこか深いところから聞こえてきます。

 

 

 

「お母さん…」とその声は言いました。

 

「ん?お母さん?」と

そのまま注意を払って聞いていると

その声はだんだん大きくなってきて

最後には

「お母さん!お母さん!お母さん!」と

泣き叫び始めました。

 

それは、7歳くらいの小さな女の子でした。

 

小さな女の子の私の感情と声が

何かの拍子に溢れ出したようでした。

 

 

 

 

 

小さな私は、母の背中に向かって

「お母さん!お母さん!」と

ずっと泣きながら叫んでいます。

 

 

 

お母さん!ずっと私のそばにいて。

お母さん!私を守って。

お母さん!私が困ったら助けて。

お母さん!私に優しくして。

お母さん!私を抱きしめて。

お母さん!私に微笑んで。

お母さん!私を認めて受け入れて。

お母さん!私を愛して。

 

お母さんお母さんお母さんお母さん!

大好き。

 

 

 

 

 

小さな女の子の私が

この世で一番愛しているのは母でした。

そして、一番欲しかったものは母の愛でした。

 

 

 

でも、「欲しい、欲しい」と叫びながら

今まで手に入れることができませんでした。

 

欲しいのに、手に入らない。

それが辛くて、欲しがるのをやめました。

 

手に入らないから

怒って、憎んで、恨んで、無関心を装い

「いらない」と言いました。

 

「大嫌い」と言いました。

 

 

 

すべての大元は「大好き」だったのです。

 

 

 

私は、泣いている小さな女の子を抱きしめて

「お母さんに振り向いて欲しかったね。

でも、こっち向いてくれなかった。

悲しいね。辛いね。

私はお母さんにはなれないけど

ずっと一緒にいてあげる。

あなたが困ったら助ける。あなたを守る。

あなたを抱きしめる。優しくする。

あなたをそのまま受け入れて、愛する。

お母さんから愛がもらえなかったことを

一緒に悲しもう」と言い、一緒に泣きました。

 

私は、小さな女の子と一緒に

思う存分、欠乏を嘆きました。

 

 

 

 

 

 

大嫌いだと思っていた母のことを

本当は大好きだったというのは

その頃40を越えていた大人の私には

受け入れがたい事実でした。

 

でも、小さな女の子の叫びを聴き

悲しみを一緒に味わうと、素直に

「そうだったんだね」と受け入れられました。

 

私の中の愛を渇望している女の子に

やっと会うことができました。

 

 

 

 

 

 

この女の子に会って

自分の奥深くの本当の気持ちを知ると

そのあと、世界が変わったと感じました。

 

何がということではないのですが

自分の周りの世界が、一段とクリアに

一段と色鮮やかに、一段と軽くなったのです。

 

明らかに、自分の心も軽くなって

すっきりとしています。

 

 

 

自分の本当の気持ちを知るというのは

こんなにも自分を癒やし

世界も生きやすくしてしまうのか!

とちょっと驚きました。

 

 

 

アダルトチルドレンなどの生きづらい人は

ずっとしんどい思いをしていたり

我慢をしていたので

特に「自分の本当の気持ち、感情を知る」

ということが大切です。

 

ひとつ、自分の感情に気づくと

必ずひとつ、自分も世界もクリアになります。

 

「本当はこう思ってたんだね」

「こんな気持ちを隠してたんだね」

と、ひとつひとつ

自分の気持ちを知っていくのは

自分を愛することです。

 

 

 

本当は欲しいものを欲しくないと思ったり

本当は好きなものを嫌いと言ったり

自分の中の真実に嘘をつくと

自分はしんどくなって心の病になります。

 

そんな嘘だらけの自分を

「嘘つかないと生きられなかったんだよね。

しょうがないよ。がんばってきたんだよね」

と優しく許して

「でも、もう大丈夫だから

本当の気持ちを教えて」と言って

自分の本当の気持ちを知ることができると

自分の中で辻褄が合い

心は落ち着きを取り戻すでしょう。

 

 

 

「いやだ、聞きたくない」

という気持ちがあると、本音は

なかなか出てきてくれないかもしれません。

 

でも、「どんな気持ちでも知りたい。

教えてほしい」と待っていると

それが出てきても大丈夫なタイミングで

本音は出てきてくれます。

 

 

 

 

 

自分の本当の気持ちをひとつ知れたら

それは、ひとつ幸せになったということ。

 

そうして、自分をもっと深く知っていく

人生という旅は続いていきます。

 

自分の本当の気持ちを知ることは

怖いことではなくて

幸せへと続いていく道のようなものなのです。

 

 

 

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人間の闇

 

 

だいぶ前の話ですが

私は、ある人と知り合いになりました。

 

 

 

その人は、女神のように優しくて

いつも私を気にかけてくれて

毎回、私を褒めてくれました。

 

いつでも私のことを見ていてくれて

好意的な言葉をかけてくれるので

私は、その人のことを好きになって

「本当にいい人と巡り合ったな」と

幸せな気分になりました。

 

 

 

 

その状況が何ヶ月か続いたある時

突然、その人の私への対応が

冷たくなったのです。

 

 

 

私は、何が起こったのかわからず

不安に襲われました。

 

「私、何か気に触ることしたかな?

何か悪いことしたかな?あれかな?

これかな?」と落ち着かずざわざわしました。

 

そして「嫌われてしまった」と

悲しくなりました。

 

 

 

 

 

 

でも、少し時間が経つと私も落ち着いてきて

疑問が浮かぶようになりました。

 

「あれ?よく考えたら

私、何も悪いことしてないよね?」

 

 

 

どう考えても、自分のせいではなくて

「あの人は何かがおかしい。何か気持ち悪い」

と思い始めました。

 

 

 

その人は、私以外の人にも

すごく優しくして、褒めたり

欲しい言葉をかけてあげていました。

 

すると、優しくされた人は

その人のことを大好きになって

精神的に依存するようになります。

 

「ずっと自分を見ていて欲しい。

ずっとそばにいて欲しい」と

言っている人もいました。

 

そうやって依存させておいて

ある時、突然突き放すと

相手は見捨てられたくないから動揺します。

 

特に見捨てられ不安の強い人だと

相当しんどくて、機嫌をとったり

すがったり

その人の言いなりになるでしょう。

 

そうやって、簡単に

人を支配することができます。

 

 

 

その人がなぜそんなことをするのか

目的はわかりません。

でも、意図的に人を依存させたり

拒絶したりして、操作しているようでした。

 

 

 

 

 

始めは、ふわふわと天使さんみたいで

優しさは女神級でとても素敵な人だと

思いましたが、その人は本当は

周りの人を操って、傷つけるというのが

見えてきました。

 

 

 

そういえば、その人は

よく人から酷いバッシングを受けるとか

酷いストーカー被害に遭って

逃げるために地方から引っ越してきたとか

話していました。

 

それも一回や二回ではなくて

いつも酷い目に遭うと言っていたので

私は「なぜこの人ばかり、そんな辛い目に

何度も遭わなければならないのか。

神様は不公平だなぁ。かわいそうに」

などと思っていたのでした。

 

今思えば、それは

その人がかわいそうなのではなくて

その人が周りの人を傷つけていたからなのです。

 

周りの人を操作して

人がもともと持っている闇の部分を

刺激して、増大させていたのだと思います。

 

その闇の爆発がストーカーであり

バッシングなのです。

 

優しくされて嬉しくなり

大好きになった頃に突き放されたら

とても傷つきます。

 

もともと自分に自信がなかったり

大切にされた経験がないと

優しくされた時の嬉しさはひとしおです。

 

そして、その優しくしてくれた人からの

拒絶は、絶望するような

悲しさ、痛みだと思うのです。

 

その痛みがストーカーやバッシングなどの

誤作動を起こす原因となるのだと思います。

(この人の優しさは意図的だと思いますが

完全に勘違いで逆恨みという場合も

多いでしょうけれども)

 

 

 

 

 

 

そのような背景が見えた私は

「やっぱり私が悪いんじゃない」

と自分を信じることができました。

 

もっと前の自信のない私だったら

誰かの機嫌が悪かったり

何かがうまくいかない時は

根拠なく「私が悪いのかなぁ」と

思っていました。

 

自分のことを「能力がない。間違える。

ものを知らない。失敗する。気がきかない。

うまくできない。やらかす。」と

基本思っているので、

なんでも自分のせいだと捉えるのです。

 

 

 

自己肯定感の低いアダルトチルドレン

そういう傾向があると思いますが

これもほとんどは妄想です。

 

自分とは全然関係ない所で起こっていたり

たまたまそうであったり

回避できないことであったり

必ずしも自分のせいではないのです。

 

 

 

 

 

この時も、一瞬「私悪い?」と反応しましたが

落ち着いて、よく周りを見て、よく考えたら

「なんだかおかしいな。私は悪くない」と

気づくことができました。

 

 

 

そうやって

自分を悪者にしないで信じてあげられたら

とても誇らしい気持ちになって

自分が満たされました。

 

自分を信じて、自分の味方ができて

自分の尊厳を守ってあげられたから

満足感を得られたのです。

 

こういう体験をひとつずつ積み上げることで

自分に対する自信はしっかりと

揺るがないようになってきます。

 

 

 

それまで、ここで自信がなくて

「私が悪いんだ」と自分を貶めていました。

自分に対して失礼なことをしてきたな、と

申し訳なく思いました。

 

 

 

 

 

その人が私に冷たくしても

私を傷つけることはできません。

 

私は「私のせいじゃないよ」と自分を守り

いつだって自分のままでいるだけです。

 

外側がどうであっても

自分の内側が「自分はこうだ」と

どっしりできたら心の平穏は保たれるのです。

 

 

 

私は私のまま。周りは関係ない。

 

 

 

 

 

 

ちなみに、その人とは

その時に私から「さよならー」と

疎遠にして、その後のことは知りません。

 

私が距離を取り始めたのを察知して

その人は、また態度を変えて

繋ぎ止めようとしましたが

私はもう関わるつもりはありませんでした。

 

「生身の人間の闇は恐ろしい」

と思った経験でした。

 

 

 

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罪悪感と向き合ってみた

 

 

私は、以前、毎日毎日

自分の中が罪悪感でいっぱいでした。

 

 

 

自分はダラダラして何もしない。動かない。

全然役に立ってない。何も生み出していない。

ただ生きて、息をしているだけだ。

せっかくの時間、人生を無駄にしてる。

何のために生きているのか。

自分には価値も意味もない。

こんな自分はダメだ。

 

と、こんな感じに。

 

 

 

実際には「ただ息してるだけ」

なんてことはないのですが

自分ではその程度だと思っていました。

 

 

 

これはエゴの声で

エゴは、家でダラダラしてる自分が

どうしても許せないようでした。

 

エゴは、こんなふうにいつも自分を責めて

「ダラダラするな。人の役に立て。

もっと働け。人から認められるように頑張れ。

仕事も家事も育児も頑張れ。

もっとイキイキと人生を充実させろ」

と命令してきました。

 

 

 

 

 

だから、自分でこんな自分ダメだと思って

一生懸命動こう、人生充実させよう、と

思うのですが、その思いとは裏腹に

体は鉛のように重くて

いつまでたっても全然動けないのでした。

 

 

 

とにかく、何もかもがめんどくさくて

異常に疲れて、エネルギーも

何も湧いてきません。

 

自分を動かすエネルギーがない。

やりたいこともない。

何も思い浮かばない。

内から湧き上がるものがない。

 

口から出る言葉は

「めんどくさい」「疲れた」「動けない」。

 

 

 

 

 

ダメだと思うのに、どうにもできない

こんな自分の人生を悲しいと思いました。

 

苦しくて、辛くて、身動きが取れない。

動くこともできない。

かと言って、リラックスすることもできない。

自分を休まることもできない。

自分を安心させることもできない。

自分を喜ばせることもできない。

 

休めない。でも動けない。

同じところにジッと硬直してるだけ。

何も生み出していないのに別に楽じゃない。

何もしてないのにすごく疲れる。

 

 

 

この時の私は、外側から見ると

何もしないで、動いてないように見えますが

実は、内側では押し合う力が拮抗していて

ものすごいエネルギーを使っていました。

 

私の内側では、戦争が起こっていました。

 

 

 

「バリバリ働いて人生充実させよう!」

というエゴの声と

「怖くて不安で疲れてできない」

という私の本音の声が衝突しています。

 

エゴが、どんなに自分を責めても

自分に期待をしても、願っても望んでも

本当の私は石のように動きません。

 

動かないから、エゴの責める声は

どんどん大きくなって

期待の声もどんどん大きくなります。

 

でも、どんなに責められても

期待されても、同じことでした。

 

責められて、期待されて

本当の私がそれに応えようと

頑張ろうとすると、異常な疲れを感じて

動けなくなるのでした。

 

 

 

 

 

 

それは、なぜなのかというと

本当の自分の意志じゃないからです。

 

こうした方がいいだろう、という

自分以外のものからの圧力で

(自分のエゴ、周りの人、世間など)

自分の本当の望みではないからです。

 

 

 

 

自分の本当の望みじゃないと

石のように動けないのだとわかった私は

自分に「本当の望みは何?」と聞きました。

 

 

 

私の望みは、人の役に立つことでも

働くことでも、キラキラすることでも

人生充実させることでもありませんでした。

 

 

 

私の望みは、ただ自分自身でいること。

 

 

 

ただ、自分自身で感じて

自分自身で味わって、自分自身でいる。

自分を全肯定する。

そのままの自分でいる。

それだけです。

 

それが、私の本当の願いでした。

 

 

 

 

 

 

人生を充実させたい、とか

バリバリ働きたい、とか

こういう望みは、私は前向きで

良いことのように思っていましたが

これもエゴの声だったと気づきました。

 

このエゴの願いを叶えたら、自分の

罪悪感や自責感情がなくなると思いましたが

自分の本当の願いではなくて

偽物の願いなのでうまくいきませんでした。

 

もう、私は偽物では動けないのです。

偽物は、やろうとすると

ものすごく疲れるのでわかります。

 

 

 

 

 

私の望みは、大それたことではなくて

「ただ自分のままでいたい」

それだけでした。

 

大それたことをしたくなるのは

エゴなのですね。

「すごい人になりたい」

というのがエゴの望みです。

 

そんなエゴの気持ちも受け止めて

私は「ただ自分のままでいたい」という

自分の本当の望みを叶えようと思いました。

 

 

 

 

 

 

自分のままでいることを許すと

鉛のようだった体が軽くなって

朝もすっきりと目覚めるようになりました。

 

枯渇していたエネルギーも戻ってきて

これが本来の

人の在り方なのだと実感しています。

 

疲れを感じる、体が動かない、というのは

自分からの「違うよ!」

のメッセージなのです。

 

 

 

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怖れているもの

 

 

私には怖いものがたくさんあります。

 

 

 

新幹線、ゴキブリ、ブツブツしたもの

という具体的なものから

死、未知などの観念的なものまで

たくさんあります。

 

 

 

自分に「何が怖い?」と聞くと

 

病気が怖い、死が怖い、孤独が怖い

外が怖い、生活苦が怖い、未知が怖い

失敗が怖い、人からの攻撃が怖い

バカにされるのが怖い、変わるのが怖い

 

と、怖い怖いのオンパレードです。

 

 

 

ひとりなんて心細くて死にそうだ。

この世の中は安全じゃない。

何が起こるかわからない。

事故、災害、犯罪に巻き込まれるかも。

人から攻撃されるかも。

具合が悪くなるかも。

誰も助けてくれないかも。

自分ひとりで困るかも。

外は怖い。怖い怖い怖い怖い。

 

私は怯えて、縮こまって生きていました。

 

 

 

 

私が怖れていることは

本当に起きるのでしょうか?

本当に起こったのでしょうか?

 

 

 

実際には、事故も災害も犯罪も

経験したことはありませんでした。

(軽い交通事故や大地震には遭いましたが

命に関わるような経験ではありません)

 

現実的に、実際に起こったのは

人からの攻撃と具合が悪くなることくらいです。

 

この2つが、私の人生を止めるほど

大変なことなのでしょうか?

 

その経験をした時は

たしかに嫌な思いをしたし

心細い思いもしたけれども

大事にならず、私はこうして生きています。

 

その経験をしたけれど

命は取られないのです。

 

 

 

 

 

私は、ふと

「このふたつの嫌な経験と私の怖れの大きさは

釣り合いが取れているだろうか?」

と疑問に思いました。

 

私の頭の中で大きくなりすぎて

大袈裟に怖がりすぎているのではないか?

と思ったのです。

 

私の怖れは、もしかして

幻想なのではないか?

自分の頭の中で大きく大きく育てて

漠然とした不安を巨大なモンスターに

してしまったのではないか?

 

私は正しく怖がっているだろうか?

 

私は、もしかしたら

ただの影をモンスターだと思い込んで

怖がっているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

私は、自分が怖れているものの正体を

突き止めようと思いました。

 

 

 

今この瞬間に

誰かに銃口を向けられているわけでもなく

目の前に猛獣がいるわけでもなく

津波や火の手が迫っているわけでもなく

巨大な隕石が落ちてきているわけでもなく

 

私は平和で安全です。

 

今この瞬間の私の目の前の世界は

危険なことは何もなく、平和です。

 

 

 

私が怖れているのは

こうなるかもしれない、ああなるかもしれない

という想像です。

 

それは、実際には起こっていなくて

今まで起こったこともなくて

起こっても死ぬほどじゃなくて

ただの予想、イメージ、幻想

もっと言うと妄想なのです。

 

私は、実体のない妄想を怖れているのです。

 

 

 

私は、現実のものと相応しくない

怖がり方をしていました。

 

私は、ただの影を怖れていました。

 

 

 

 

 

 

それから、不安と恐怖が上がってきたら

「これは影じゃない?」と

自分に聞いてみることにしました。

 

影を影だと見破ると

囚われていた幻想は一瞬にして消え

不安と恐怖は軽減されました。

 

 

 

もし、不安と恐怖で震えている幼い私が

「怖いよ、怖いよ」と言ってきたら

「大丈夫だよ。私が守ってあげるから」

と抱きしめて安心させてあげました。

 

 

 

 

 

でも、恐怖心は

自分を守るために必要な機能なので

なくす必要はありません。

 

だから、正しく怖がることが大切なのです。

 

影をモンスターだと思って

必要以上に怖がるのではなく

現実のものをそれ相応にふさわしく

正しい怖がり方をしようと思いました。

 

 

 

 

 

私は、この地球で

怖れて縮こまって生きるのではなく

くつろいで、楽しく、自由に

幸せに生きていきたいのです。

 

そのために

この自分が怖れているものの検証は

とても大切な作業でした。

 

よく言われますが

怖れているもののほとんどが

自分の妄想なのです。

 

 

 

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