心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

人は自分を映し出している

 

 

 

私は、以前

別の場所でブログを書いていました。

 

その時に

交流のあったブロ友さんがいたのですが

彼女がおもしろいことをしました。

 

 

 

ブログ記事の中で読者さんに向けて

「私がどんな人に見えるのか

率直な意見を聞かせてほしい」

とコメントを募集したのです。

 

「自分が周りにはどう見えているのか

どういう印象を与えているのか

知りたくなった」と言っていました。

 

 

 

私は「おもしろいことをするなぁ」

と思いました。

そして、コメントなどで交流もあったことから

私もその募集に参加させていただきました。

 

私の思う彼女の印象を

真面目に誠意を持って正直に伝えました。

 

 

 

 

 

彼女の元には何人かの人から

コメントが寄せられていました。

 

細かくは覚えていないのですが

みんな彼女の良い面にフォーカスして

それぞれ、思い思いのことを

書いていたと思います。

 

みんなが同じことを書いているのではなく

けっこうバラエティに富んでいました。

 

私からは「へぇーそんなふうに思うのか」

というような意外に思うものもありました。

 

 

 

 

 

その数々のコメントを受けて

彼女はコメントをくれた人にお礼を言い

こんなことを言っていました。

 

「たくさんの自分への印象を教えてもらって

おもしろいと思ったのは

その人の私に対して語っている印象と

私がその人に抱く印象が同じだった

ということです」

 

つまり、ある人が彼女に

「あなたは○○な人ですね」と言ったら

彼女は「あなたこそ○○な人ですよ!」

と思ったということなのです。

 

 

 

 

私は、これは興味深い話だ!と思いました。

 

だから、彼女に対する印象が

人によってバラバラなのです。

彼女という人間は

たったひとりしか存在していないのに。

 

彼女という人間はひとりだけど

彼女の中にはいろんな顔、要素があります。

 

それは見えやすいものから

隠されているものまで

また、高潔なところから邪悪なところまで

ありとあらゆるものがあります。

 

人間とは想像以上に多面的な存在なのです。

 

 

 

その多面的な存在から

何を見るか、何が見えるか、は

みんなそれぞれ違っていて

実は、みんな自分の持っているものが

見えているのです。

 

自分の持っているものが

鏡のように彼女に映し出されて

それが見えているのです。

 

だから、彼女に対する印象が

バラエティに富んでいて

彼女から見ると「それはあなたでしょ?」

ということになるのです。

 

もちろん、彼女にも同じ要素があって

だからこそ、相手にもそれが見えます。

 

 

 

逆に、自分と全然関係ないようなところは

見えず、気にならず、反応しません。

 

 

 

よく、誰かを「素敵な人だなぁ」と

思ったとしたら、自分にも同じ要素がある

と言われています。

 

それが、実験して証明された感じで

私は興奮しました。

(実験したのは私ではありませんが)

 

興味深い!おもしろい!と思いました。

 

「本当にそうなんだなぁ。

自分の中にあるものを相手に見てるんだなぁ。

そうなのか、おもしろいなぁ。」

と感動しました。

 

 

 

 

これは、良い面もそうですが

悪い面についても同じです。

(良い悪いは本来ないけれども

自分にとって好ましいか、好ましくないか

という意味です)

 

誰かに「あの人のここが好き!」と思ったら

それは自分の中にもあるということ。

それと同じで、誰かを嫌い!と思ったら

自分の中の同じところが嫌いなのでしょう。

 

誰かを「大嫌い!許せない!」と思ったら

その人のどんなところが嫌いなのか

どんな行為が許せないのか

じっくり向き合ってみるといいですね。

 

必ず、自分にも同じところがあるはずです。

 

「そんなはずない!私はあんな人とは違う!」

と反発したくなりますが

自分の心を深く掘っていくと、やがて

「ああ、あったわ」と気づく時がきます。

 

その嫌なところが自分にあるのが許せなくて

自分に厳しく禁止して、罰しているから

他人のその部分に反応して

許せない気分になるのです。

 

その嫌なところを持っている自分が嫌いで

許せないから、人の同じところも許せません。

 

 

 

でも、そういう嫌なところ

受け入れがたいところは誰にでもあるもので

本当は別に持っていてもいいのです。

 

聖人である必要などなくて

人はみんな未熟な「人間」なのですから

どんなところも歓迎してあげていいのです。

 

 

私も、自分の心を観察して

「人間とは浅ましいものだなぁ」と思いますし

よく「ふふ、エゴ全開だね」と思います。

 

そうかといえば

猫を撫でくりまわし「可愛い可愛い」と

何十回言っても「可愛い」が足りないと

思うくらい深く猫を愛するところもあり

それらすべてを含んで私なのです。

 

高潔さと邪悪さと

すべてを合わせ持っているのが人間です。

 

 

 

だから、目の前の嫌いな人は

牢獄に閉じ込めた自分を解放してあげるための

救世主かもしれません。

 

その嫌いな人のおかげで

自分が自分のどこを嫌っているか

教えてもらえて、もし気づけたらそれを許し

解放することが可能になるのですから。

 

 

 

 

 

目の前の好きな人、嫌いな人には

自分の持っている要素が映し出されています。

 

目の前の好きな人、嫌いな人は

自分自身なのです。

 

そんなふうに人を捉えてみると、ずいぶんと

自分を知ることの助けになります。

 

 

 

 

自分を知れば知るほど楽になるので

このものの見方が自分を救う

強力な武器となるでしょう。

 

 

 

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