心のままに〜生きづらさの克服

毒親育ちのアダルトチルドレンが自分を救ってきた日々

お世話をする経験、お世話になる経験

 

 

 

先日、体が動かせなくなっても

安楽死を選ぶのではなく

最後までこの世での「経験」を

全うしたいというお話を書きました。

 

最後まで、自分がこの体を通して

何を感じて、何を思って、何に気づくのか

知りたいと思いました。

 

死ぬまで、その「経験」は続いていて

それはとても恵まれていること

スペシャルなことなのだ、ということも。

 

 

 

 

けれど、自尊心が低いと

とてもじゃないけれど

そんなふうには思えないということも

よくわかります。

 

自尊心が低い人は

自分は動けなくなって

人の役に立つことができないのに

人の世話になって迷惑をかけることに

耐えられません。

 

だから死にたくなります。

 

ただでさえダメな自分なのに

頑張れない自分なんて

人の役に立てない自分なんて

人の重荷になって迷惑になる自分なんて

生きていられないと思ってしまいます。

 

 

 

ALS(筋萎縮性側索硬化症)になる人は

病気になる前は、とても活動的で

何でもひとりでやってしまう頑張り屋さん

だった人が多いようです。

 

人の世話になることに、一番

抵抗を感じるタイプだったでしょう。

 

だからこそ

今までひとりで頑張ってきたからこそ

人の世話になることを学ぶために

その機会を与えられたのかもしれません。

 

その学びも価値あるものです。

 

 

 

 

とは言っても

家族に迷惑かけたくないという気持ちは

とてもよくわかります。

私もそう思います。

 

迷惑をかけられるよりも

迷惑をかける方が

経験としてのハードルは高いです。

 

どっちの経験がしたい?と言われたら

お世話になる経験よりも

お世話してあげる方

助けられる経験よりも

助ける経験の方がしたくありませんか?

 

その方が「良いことをした。役に立った。」

と、自分が良い気分になれますから。

 

だから、してあげる方が

ハードルが低いです。

 

 

 

 

でも、経験には

どんな経験も優劣がないので

どちらも価値ある経験であることに

変わりはありません。

 

極端なこと言うと

人助けも人殺しも「経験」という意味では

同列だそうです。

 

どちらも、してみなければ

その時自分がどう感じるかわからないので

経験してみてそれを知るということは

尊いもの。

 

そういう意味で

どんな経験も価値があるということなのです。

 

 

 

 

 

そういうものの見方をすると

自分で何もできなくなったら

生きていてはいけないのかというと

そうではないことがわかります。

 

赤ちゃんもお年寄りも

病気の人も障害のある人も

みんな誰かのお世話になって

立派に生きています。

 

 

 

それは、ある人に

「お世話する経験」「迷惑かけられる経験」

をさせてあげることができる

貢献でもあります。

 

お世話したい!助けたい!と思う人がいても

それをさせてくれる人がいなければ

その人は願いを叶えられません。

 

人は、魂レベルでは

どんな経験でも全部経験してみたいと

願うものらしく

お世話したいという願いを叶えるには

お世話させてくれる人が必要で

双方、持ちつ持たれつの関係になるのです。

 

 

 

だから、本当は

「自分で何もできなくて申し訳ない」と

思う必要はないのですね。

 

「人の役に立たなければ生きる資格がない」

と言わんばかりの世間の空気ですが

それは間違いだと思います。

 

自分で何もできなくても

人の世話になっていても

誰かにお世話する経験を

させてあげる貢献をしているし

また、周りの人たちに何かを感じさせ

考えさせ、気づかせる存在にもなっています。

 

自分で何もできなくても

存在しているだけで

周りには多大な影響を与えているのです。

 

 

 

 

 

そう考えると

病気で動けなくなっても

安楽死を選んだりせずに

苦しみも含めて

この世を経験し尽くして

満喫していればいいのだと思いました。

 

 

 

でも、きっと

健康だから言えることなのでしょうね。

 

 

 

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